[題目]託宣の韻律性を巡って―庄内地方の口寄せ巫女の事例を中心に―
[報告者]平山 眞
[報告要旨]本報告では、「巫俗研究のアクチュアリティ」を、巫儀の行為遂行的(パフォーマティヴ)側面と、巫者の社会的位置というコンテクスチュアルな側面の両面をバランス良く分析することにあると考え、その具体的方策として山形県庄内地方に住むミコ・ミコサンなどと呼ばれる、その大部分が盲目の口寄せ巫女が行ってきた、各種儀礼でのカミオロシに関し、これまで彼女らの主業態と見なされてきた観のあるホトケオロシ、及び宮城県・岩手県南部・山形県内陸部の口寄せ巫女のカミオロシ・ホトケオロシとの間の儀礼形態上の相違、及び彼女らの社会的位置を中心に考察を加える。
 さて、庄内地方の巫俗の特質を、口寄せ巫女の活動に限って抽出を試みるならば、
@共同祭祀への関与は同地方で近年まで活動していた/現在も活動している少なくとも6名の口寄せ巫女に共通に見られる。さらにまた、うち3名は、村落において中心的祭祀と見なして良いだろう旧村社レヴェルの神社祭祀に関与している/したことがある。
Aホトケオロシとカミオロシについて前者ではメロディを伴う歌、後者ではフラットな語りという形式で口調を変える例が3例存在する。更に、カミオロシをフラットな語りで行う例は4例を数え、カミオロシとホトケオロシで口調を変える、という例が6例ある。
という2点を挙げられるだろう。
 報告者は、まず第1に、報告者は宮城県内陸部などでは口寄せ巫女が共同祭祀に関与しない例が圧倒的であるのに対し、宮城県北部と岩手県南部の海岸地方、山形県最上・村山地方、そして庄内地方ではサンプル数は少ないとはいえほぼ全員が関与してきた、という点に注目する。さらには、庄内地方では共同祭祀であることに加え、村落の中心的な祭祀に関与する例さえ現れているのである。また、第2には、これは恐らく上記の問題とも結び付くものであると考えるが、同じく宮城県及び山形県内陸部の口寄せ巫女はホトケ・カミのどちらをおろす場合にもその時の口調はメロディを伴う歌であるのに対し、庄内地方では両者で口調を変える事例が大多数を占めることを問題視したいと思う。
 ここでは、<韻律性のないカミオロシは韻律性のあるカミオロシに比べより公的性格の強い祭祀と結びつきやすい>、という仮説を立ててみたい。
 それでは何故に韻律性の無いことが公的性格の強い祭祀と結び付くのか、という点について考えてみると、要は韻律性の有無もまた言語表現の持つ特性の一つなのであると考えれば、それが使用者集団によって<韻律性あり−私的性格の強い儀礼>、<韻律性なし−公的性格の強い儀礼>という連合が、それこそ恣意的に形成されることもあり得るのかも知れない。言い換えるならば、公的/私的という二分法が、カミオロシの韻律性の有無によって表象されている、ということになるであろうか。以上。

[コメント]角田幹夫氏:第1に、ここで触れられている女性祭祀集団の具体的な形態はいかなるものであるのか、第2に、カミオロシ=託宣の言葉の情報伝達性はどの程度のものなのか、第3に、これは2番目の問題とも関係するが、ここで言う「公と私」というのは、言語論的にみた場合の日常性・非日常性ないし論理性・非論理性とはどう関わるのか、第4に、東北農村の社会構造はこれらの問題とどう関わるのか、という点についてお聞きしたい。

[返答]平山:女性祭祀集団にはその規模・形態についてかなりのヴァリエーションがある。オシラサマ・オコナイサマの祭祀集団に関しては、宮城県北部と岩手県南部の海岸地方ではかなり大きなものであり、庄内地方では相対的に小さいと言える。カミサマアソバセについては、実施されてこなかった宮城県内陸部を除く全ての地域で比較的規模が大きいものである。次に、カミオロシ=託宣の情報伝達性は極めて高く、韻律性の有無を問わずはっきりと内容を聞き取ることが出来るため、参加者はメモを取ったりしていく。この点については、どの地方も大きな差はない。これと関連する第3の問題について言えば、彼女らの発話は極めて論理的なものであるが、韻律を伴う、及び格調が高い、という点で日常的なものとは言い難い。最後に、村落構造との関係については、これまでさんざん調べてきた結果、殆ど何も言えない事を見出してしまっている。言及しなかったのはそのためである。

[議論]
Q:「韻律性」とは、厳密にはどういうことなのか?
A:これについては聞いて頂くのが手っ取り早いのであるが、要は日常会話的な声調とは相対的にかなりの隔たりを持つ、音程の上げ下げとリズムの変化を伴う事、と理解して欲しい。
Q:「公的・私的」については、どうなのか?
A:シャマニズム研究などで用いられる一般的な意味(辞書的な意味)で用いている。
Q:「間接的な聞き取り」で立論するのは正当なのか?
A:巫女が既に亡くなっている例、また儀礼が行われていない例が多々あり、そのような調査法以外にどうしようもないとも言える。但し、最も重要な事例については実際に参与観察しているし、聞き取り調査を行ったのも、それぞれの巫女に頻繁に接触していた人々なので、さほどの問題は無いだろう。(後記:考えてみれば、そもそも「間接的でない聞き取り」など存在するのだろうか?今後は誤解を招き易い「間接的な」という形容動詞は省くことにしたい。)
Q:結論部については、韻律性と感情、非韻律性と政治性を結びつけるような説明も考え得るのではないか?
A:川田順造が挙げているような対極的な事例も存在するので、敢えてそちらには議論を持っていっていない。
Q:同じく結論部は、庄内地方の数名の巫女が戦略的に非韻律的な託宣を編み出した、と言っているようにも取れる。この報告のような記号論的説明、あるいは上の質問に含まれる心理学的・機能論的な説明の代替案として、行為遂行性を問題にしているようにも思うのだが?
A:その通りである。但し、戦略的、とまで言えるかどうかについては疑問であり、そのために本報告では記号論的な説明に留める事にした。重要なのは、あくまでも<差異>である。
(以上・文責平山)