Youssef Chahine監督作品『炎のアンダルシア』
原題はAl Massir。エジプト・フランス合作である。監督はエジプト映画界の巨匠らしいYoussef Chahine。昨年のカンヌ国際映画祭で第50回記念特別賞を受賞した大作である。物語自体は極めて単純に父と子の対立や権力闘争を描いたもので、映画技法もそんなに洗練されていないのだけれど(そのことがかえっていいのかも知れない。)、その舞台設定と、その結末の持つ意味合いにおいて、なかなかに奥深い作品となっている。物語の舞台は12世紀のアンダルシア。<穏健派イスラム主義+ギリシャ哲学>を旨とするらしき哲学者と、彼を「法的権威」に据える「カリフ」を中心としたアンダルシア「首長国」と、<過激派イスラム原理主義+キリスト教国(スペインらしい。)との妥協路線+テロリズム>を旨とする「セクト」(アラビア語でなんと呼んでいたのかは不明。)が対立し、哲学者は焚書の憂き目にあい、またカリフの次男はアンダルシアの覇権を目指す上記セクトに「洗脳」を受け、父殺しを命じられることになるのだが、結末はいかに、というお話である。
果たしてどこまで史実に忠実なのか、などという野暮なことは止めておこう。この作品はむしろ、歴史的大叙事詩の形式を借りつつ、その実かなり露骨な形でエジプト社会の現状を描こうという意図のもとで作られているように思われるからである。それはもちろん、欧化・近代化政策を採る今日のエジプト政府と、そうした政策に反対する過激派・急進派から穏健派まで恐らく多様な形で存在しているだろうイスラム原理主義者達の間の対立図式を、本作品が基本的には踏襲していることが一目瞭然に読みとれるからである。もちろん、作品中では原理主義派がむしろキリスト教国との宥和・妥協策を採ろうとするのに対し、アンダルシアの政治主体であるカリフがアンダルシア・ナショナリズムを打ち出しており、キリスト教国とは完全に決裂している、という形でやや捻れた構図になっている。ただ、原理主義派はキリスト教国との宥和政策を実のところアンダルシアの覇権奪取のための方便として用いている訳だし、最終的に人倫主義的な哲学者と和解するに至るカリフは必ずしも絶対的に排外的なナショナリストという訳ではないのである。ということで、恐らく故意に持ち込まれたのだろう若干のずれはあるものの(そのままでは物語ではなく単なる政治評論になってしまう。)、本作品は今日のエジプトの政治状況を映し出す寓話として製作されたことは間違いないであろう。
さて、先ほど、「結末の持つ意味合い云々」と述べたが、それは哲学者の著作の写本を巡る一連の挿話のことである。この中に『アリストテレス注釈』というものが含まれていることにも注目しておかなければならないが(U.エーコの『薔薇の名前』を想起せよ。)、その一部はフランスに、もう一部はエジプトに持ち出され、前者は持ち出しに失敗するのだが後者は成功する。これは結局、エジプトには「叡知」がもたらされたのに対し、フランスには…、という事を暗示しているのだと思うけれど、この辺り、エジプト・フランス合作であるにも関わらず、かなりエジプト寄りのイデオロギーを体現してしまっている事に驚かされてしまった次第である。まあ、フランスと一口にいっても、決してイデオロギー的に一枚板の国家ではない訳で、イスラムやエジプトに肩入れする人々も暮らしているのだから、こういうことは別に驚くような事ではないのかも知れない。ただ、フランス側スタッフのこうしたある意味での「健全さ」とは裏腹に、本作品に関わった人々のイスラム原理主義に対する目はちょっとばかり近視眼的で、彼等をステレオタイプ化していないだろうか、という疑問も抱いてしまった。まあ、イスラム原理主義を大なり小なり認めてしまうような作品は作り得ないのかも知れないエジプト映画界の事情があるのかな、などと、とりとめもないことを考えてしまった次第である。(1998/05/09)