Bernardo Bertolucci監督作品 Besieged 
邦題は『シャンドライの恋』。多分戸田奈津子氏によるこの邦題は、必ずしも間違った命名ではないのだけれど、私見では微妙に違うように思う。本作で描かれる「恋」の主体はむしろ、夫の身柄をアフリカのどこかの国(作中でははっきり示されない。)の軍事政権によって拘束されているイタリア留学中の医大生Shandurai(Thandie Newton)の方ではなくて、彼女を住み込みメイドとして雇っているピアノの上手い多分英国籍の高等遊民Jason Kinsky(David Thewlis:ところでこの苗字、どう発音するんだ?シュウリスでいいの?)の側に比重があるような気がするのだ。しかし、原題のbesiegedという語に込められた意味内容もやや図り難い。直訳すれば、「包囲される」「悩まされる」「攻め立てられる」、とでもなるのだろうけれど、本作におけるKinskyの行為は「見返りを期待しない無償の贈与」とでも言うべきものであって、身体的/精神的両面において実際のところ何らの暴力性も存在しないのだ。それなのに、何故、besiegedなのか?始めの方こそ、やや強引で一方的なKinskyに引いてしまう彼女だけれど、その辺の、勘違いによる嫌悪感を表現する語をタイトルにするのも何だか変な感じがする。ストーキングと恋愛感情表現の境界は極めて曖昧で、結局「される側」の主観においてのみ決定されるものだということは当たり前なのだけれど、その行為が余りにもピュアで美し過ぎる、恰もムイシュキン公爵の如きKinskyを貶めるようなタイトルであることは間違いないだろう。だらだらと打ち込んできたけれど、兎も角も、本作品は邦題が提示した如きキュートで殊勝な既婚の医大生Shanduraiを描いた映画なのではなくて、観るものによっては寧ろ、ピュアでちょっと間抜けなKinskyを主人公とするシンプル極まりない恋愛映画として評価されるものだと思う。しかし、この巨匠が、これだけシンプルな映画を創った、ということがそもそも快挙である。The Last Emperor以降しばらく何がやりたいのかさっぱり分からなかったこの監督だけれど、ようやく吹っ切れたのかな、という作品とは関係のないところで妙な清々しさを感じてしまったのであった。付き物のダンス・シーンは最小限で、撮影も盟友Vittorio Storaroではなく、全く知らないFabio Cianchettiという人。もう過去とは訣別した、とでも言わんばかり。ついでに言うと、Kinskyを演じるDavid Thewlisは、Mike Leighの傑作Nakedにおける駄目男のイメージが強烈だっただけに、そのギャップを楽しんでしまった。恐ろしく器用な俳優なのです。玉投げも上手いしね。ピアノを弾く演技はあんまり上手くないけれど。音と体の動きがあっていないよ。キムタクの方が上手かったような。ところで、<ピアノ>、<コロニアルな状況下におかれた男女>、<贈与交換ないし互酬性>とくれば、どうしたってJane Campion監督のThe Piano(邦題『ピアノ・レッスン』)を想い出してしまう。最後に挙げた<贈与交換ないし互酬性>については、一般的か限定的かの違いはあるけれども。付け加えるならば、Kinskyが、掃除をするShanduraiを見ながら着想する本作のメイン・テーマともピアノ曲は、基本的にミニマル・ミュージックであって(でも、演奏はえらく難しそう。)、The Pianoで使われた殆どの楽曲を創ったMicheal Nymanの作風にも通じるものだ。どちらかというと、Philip Glassに近いように思うれど。どうでもいいことを打ち込んだところで終わりにする。(2000/02/18)