二階堂黎人著『宇宙神の不思議』角川文庫、2005.10(2002)
美青年探偵・水乃サトルの学生時代もの長編第2弾。長いです。と言うより長すぎますよ、これは。さてさて、この実に長大な書物(720ページほど)では第1弾『奇跡島の不思議』の登場人物である武田シオンの恋人・小川宜子(よしこ)の依頼で、彼女の失われた幼少時の謎を調査し始めたサトルその他が遭遇する様々な事件とその顛末が描かれる。でもって、「宇宙人に誘拐された」記憶を持つ彼女の重要な関係者として、「宇宙人の存在を信じる」、というか直接の遭遇経験を持つほどの信者までをも多数抱える宗教団体《天界神の会》の存在が早い段階で浮かび上がり、という展開のため、ストーリー上の都合でエイリアン・アブダクションその他に関する薀蓄を語るべく膨大なページ数になっている、という次第。
やや肩透かしな感じがする密室トリックだの、初めからこの人しか考えられない犯人当ての趣向だの(利害関係で明らかかと…)、最初からそういうことなんだろうなということが割合あからさまな誘拐事件の真相だの、本格ミステリとしての完成度はもう一つなのだけれど、この本はそれを狙っているのではないのだろう。そうそう、サトル、シオンに加えて、彼らがサトルの先輩達である《宇宙人侵略対策地球評議会》のメンバと繰り広げるドタバタこそが本書の核心部分なのではないか、と考えたのだった。要するに、評者は本書を良く出来た学園コメディとして読んだ、ということである。以上。(2005/11/20)
森博嗣著『赤緑黒白 Red Green Black and White』講談社文庫、2005.11(2002)
保呂草&紅子もの長編ミステリの第10弾にしてその掉尾を飾る作品。殺害後に赤・緑・黒・白の各色に塗装された死体を巡る謎に瀬在丸紅子その他の面々が挑む。今回は殺害手段よりもその動機面というか殺人に至る経緯に関する問題に重きが置かれていて、結論としては紅子を含む本書の登場人物約4名にはその理由が〈分かる〉、ということになるのだろう。そして、この本を読んだだけだとその理由というのが何のことやら良く分からない、という読者が大半なようにも思う。
実のところ、この本一冊では体系的に閉じていなくて、最低でもこのシリーズの前に書かれた犀川&萌絵ものの最初(『すべてがFになる』)と最後(『有限と微少のパン』)の長編辺りは読んでおかないといけないような作りになっている。全体を俯瞰するような視点が必要、ということになるだろうか。これについては賛否両論あると思うのだが、個人的にはシリーズものである以上読者がそれらを一通り読んでいることを作者が前提条件として想定するのはそれほど間違ったことではない、と考えている。
さてさて、本書には実に様々な趣向が凝らされているのだけれど、取り敢えず刑務所に収監された殺人犯に、本書で描かれる事件の犯人についてのヒントというかそのまんまを紅子が聞きに行くという辺り、犯人捕縛のために紅子の方が一種のペテンを講じるという辺りに、敢えて名前は挙げないけれど過去のエポック・メイキングな作品群の反映を感じたのであった。他にも色々とあるのだけれど、それらについては実物にあたって頂きたい。
以下蛇足だけれど、本書のタイトルになっている四つの色は、民族学的三原色と呼ばれる「赤黒白」に、もう一つ加えても良いだろうと考えている人が多いはずの緑ないしより一般的には青が加わったものでもある(ご存じの通り青と緑は日本ではほぼ同一視されている。)。知っている人は多いと思うけれど、この四色は「ヨハネの黙示録」に出てくる馬の色でもある(ちなみに順番は白赤黒青。)。これに黄を加えると道教における五原色になるところも一興。ついでながら、虹は五色である、と考えている民族集団は結構多いのである。以上。(2005/11/20)
押川真喜子著『在宅で死ぬということ』文春文庫、2005.11(2003)
聖路加国際病院の「訪問看護科ナースマネージャー」という役職に就いておられる著者が、自らの経験に基づいて記したこの国における末期医療に関する事例集。自分の父を含む様々な死の形についての極めて具体的な記述は、人の死というものが今日において持つ意味とでも言うべきもの、あるいは人が死というものについてどういう意味づけを与えているのか、といったことについて実に色々なことを考えさせてくれる。
さてさて、山崎章郎が『病院で死ぬということ』(文春文庫で読めます。)という本でこの国の人々が自宅ではなく病院で死ぬことが大半となったことに関して、「そこで行なわれている強引とも言える延命措置を含む末期医療は果たして人間的と言えるか?」というような疑義を唱えたのが1990年のことだった。その後医療機器はよりコンパクトなものになり、人は再び自宅で死ぬことをその選択肢に入れることが可能になってきたし、山崎その他の上記のような考えが広まるにつれ状況は1990年以前とは一変している、とも言えるのだろう。そういう意味で、本書は「今日における人の死」を考える上で大変貴重な資料ともなるものでもある。敢えて大胆に、それは要するに、「人の死は再び人の手に戻りつつある」ということになるのかも知れない、そしてまたそれはテクノロジの発達を契機になされる、という辺りが実に面白い、とここでは言っておきたい。
もう一点、やはり末期医療についての豊富な実例を含むE.キューブラ・ロスの実に啓発的な書『死ぬ瞬間』(中公文庫で読めます。原著は1969年刊行。)が扱っているのがアメリカにおける事例で、そこではキリスト教的世界観に基づいて死を受け入れるなり拒絶する、というような例が多かったのも事実。それでは「無宗教」の人が大半な日本の文脈では一体どうなんだろう、という疑問がずうっと頭から離れなかったのだけれど、本書はそれに一部答えるものである。看護師・医師をはじめとする医療・介護に携わる方のみならず、広く一般に読まれるべき本であると思う。以上。(2005/12/11)
Italo Calvino著 米川良夫訳『レ・コスミコミケ』ハヤカワepi文庫、2004.07(1965)
キューバ生まれのイタリア人作家イタロ・カルヴィーノによる一応SFに分類し得る奇想天外な短編集。翻訳は1978年に早川書房から出ていたわけだけれど、昨年文庫化。続編とも言うべき『柔らかい月』が河出文庫から2003年に再刊されているので、こちらも近々読もうと思っているのだけれど、それは兎も角として、と。さてさて、本書はまさに奇想としか言いようのない珠玉の短編集で、その中身は、というと、宇宙の誕生前から生き続けているという語り部Qfwfq老人(誤植でも文字化けでもありませんよ。)が語るこの宇宙や地球に起きた様々な出来事。どこかで聞きかじってきたのではないかと想像する若干通俗的な科学知識を縦横無尽に使いつつ、それらを見事にコメディという形に仕立て上げる才能はさすがにこの人ならではのもの。記号論を使っている部分だの、メタ・フィクションになっているところだのといったところに、同じくこの作家らしいテイストを感じることもしばしばであった。私が尊敬してやまないポーランドの作家スタニスラフ・レム(Stanislaw Lem)との繋がりも見てとることの出来るこの傑作をどうぞご堪能下さい。そんなところで。(2005/12/12)
藤木稟著『黄泉津比良坂、血祭りの館』徳間文庫、2003.06(1998)、『黄泉津比良坂、暗夜行路』徳間文庫、2004.09(1999)
前者は「よもつひらさか、ちまつりのやかた」で後者は「よもつひらさか、あんやのみちゆき」と読む。『陀吉尼(だきに)の紡ぐ糸』(1998。現在は徳間文庫)、『ハーメルンに哭(な)く笛』(1998。これも徳間文庫。)という優れた作品で開幕した所謂「探偵朱雀十五もの」に属する作品なのだけれど、今更ながら、1年ほどの期間のうちにこれだけの密度の作品を4冊も上梓していたこの作家の力量というものは並大抵ではない。文庫化がやたらと遅れ、今回の『黄泉津比良坂』は2冊で連続した一つの作品なのに1年以上の間隔をあけて刊行したことにはやや読者泣かせなところを感じるが、これがこの出版社のポリシーなのだ、と受け取っておきたい。
中身についてはごく簡単に。物語の時間は、前段にあたる『血祭りの館』は大正10年頃、後段の『暗夜行路』(志賀直哉ではありません。)は昭和10年に設定されている。舞台は奈良県の吉野郡十津川村。所謂旧家にして政財界に大きな影響力を持ってさえいる名家・天主(てんしゅ)家の洋館で起こる連続猟奇殺人の顛末を描く。「血取り」に関わる民間伝承から始まって最後はとんでもないところまで話が展開していくのだが、要するに宗教学・神話学・図象学、あるいはまたオカルト・西洋音楽史・日本の歴史等々にまたがる膨大な知識を背景に組み上げられた大変な作品で、感服した次第。前段では『魔笛』、後段では『ファウスト』という、実は共通点の多い二つの作品がうまい具合に料理され、凝りに凝った密室トリックや暗号解読を多量に含む宝探しの趣向も実に良く出来ている。兎に角見事な作品なのでご一読のほど。
ところで、ちょっと気になったのが最後のほうの「夜が開ける」という表記で(後段の481頁)、これは故意なのか、はたまた単なる誤記なのかが分からない。こういう表記をする理由はないので、誤記だとは思うのだが…。この辺り、良い場面なのでとても目立ってしまうのが玉に瑕なのである。以上。(2005/12/27)
藤木稟著『大年神が彷徨う島』徳間文庫、2005.04(2000)
「おおとしのかみがさまようしま」と読む。本書は上に記した『黄泉比良坂…』に続く「探偵朱雀十五」ものの長編本格ミステリ。四国あたりにある「鬼界ガ島」を舞台に、この島で古来から信仰されている「大年神」による、島の人から見れば神罰としか思えない連続殺人事件を巡っての顛末が語られる。
小松和彦が調べたことで有名になった、基本的に陰陽道の流れを汲む「いざなぎ流」や、四国ではこの作品の舞台設定である昭和11年くらいにはごく普通に見られたのではないかと思われる「憑き物」信仰等々を大々的に取り上げつつ、同島における二つの親族集団の相克が事件の通奏低音をなすという、敢えて言うなら横溝正史的な雰囲気も立ち込める見事な作品となっている。
いざなぎ流が「小松流」と言い換えられているところが面白かったのだが、この辺はご愛嬌。ちなみに、本書における「憑き物」信仰についての簡にして要を得た見事な説明は大変素晴らしいので、その辺りに興味を持ちつつ、エンターテインメント作品を通して手っ取り早く理解しちゃおうと考えていながらも、例えば京極夏彦の作品はやや敷居が高過ぎると感じているような方は本書をお読みになると良いと思う。但し、当然脚色もあるので、より正確な知識を得たい方は吉田禎吾先生や小松和彦の本を読むべきだろう。
さて、今後恒例になるかも知れない(と言うか、既になっているかも知れないが…)細かいミスの指摘を。274頁の「小松の主人」は「中村の主人」が正しいはず。次、424頁の「秒速九・一八メートルという重力速度」という表現はほとんど意味が分からない。正確には「一秒毎に九・八メートル毎秒の重力加速度」となる。分かりやすくしようとしているのかも知れないが、数値がおかしい上に「重力速度」などというこの世界に存在しない概念を持ち出しているのはまずいと思う次第。以上。(2006/01/02)
有栖川有栖著『絶叫城殺人事件』新潮文庫、2004.02(2001)
約2年前に文庫化された、京都の私立大学で犯罪社会学を教える火村先生と著者自身を謎解き役とする「館もの」本格ミステリ6篇を収める短・中編集。「絶叫城」を除けば「月宮殿」、「紅雨荘」等々、実に品の良い名前の建物が主題なり舞台なりになっているのだが、ご存知の通り端正で格調の高いミステリを書き続けてきたこの著者らしい綺麗な作品集に仕上がっている。特に、所謂本格ものというより社会派ミステリに限りなく近い表題作「絶叫城殺人事件」が面白かったのだが、著者がこの中で行なっている「TVゲームは犯罪を生むか?」という問いに対する回答はなかなかに辛辣だ。それは措くとして、実は、建設コンサルタントをしているという竹島清氏が書いた解説が余りにも面白すぎるので、これについて一言述べておきたい。いかにも今話題の職業、という感じなのだが、この人の語る実話群に、「ふうむ、そんなこともあるのかぁ。いやぁ『偽装』なんてひょっとして日常茶飯だったり?」、と瞠目させられた次第。以上。(2006/01/05)
山田正紀著『渋谷一夜物語』集英社文庫、2005.10(2002)
ひそかにこのサイトで全作品紹介を達成しようと思っていたりもするのだが、余りにも作品数が多すぎてそれは基本的に不可能な天才作家・山田正紀による短編集。ミステリ・ホラーからSFまでといったありとあらゆるジャンルにわたる15編はそのどれもが大変素晴らしい。これが、渋谷の街中でオヤジ狩りにあった作者が、「面白い短編を聴かせてくれたら許してやる」、と言われて一晩で語ったものだというのだから凄い。確かに、人間というのは、火事場のバカ力ではないけれど、いざとなったら大変な力を発揮するものらしいので、元々天才な山田正紀ならこれくらい出来るのは当たり前かも知れないが…、というようなことを書くと、文面通りにとる人がいるので大変困るのだが…、なんてことはないことを祈ろう。以上。(2006/01/12)
岡嶋二人著『99%の誘拐』講談社文庫、2004.06(1988→1990)
1988年に徳間書店から刊行されて第10回吉川英治文学新人賞をとった傑作の講談社文庫からの再発。再発なのに物凄い売れ行きだったようで、手許にある2005年11月の版は第11刷。徳間文庫に入っていたはずなのだが、絶版状態だったのかも知れない。それは兎も角、と。本書は1988年当時における最新のテクノロジを駆使して行なわれる見事な中学生男子誘拐身代金略取事件を描く。「物理的に無理」なんていうのは野暮かつ無意味だ、と西澤保彦による解説に書かれているように確かにこの犯行は物理的・技術的には無理なのだが、それをいうのは野暮かつ無意味だろう(って、同じことを言ってるだけか…ごめんなさい。)。そんなことは別にどうでも良いことで、20年前の事件と絡めたプロット構築が絶妙に素晴らしいし、なんといっても犯人が直接接触することなくまんまと被誘拐者を監禁場所に誘い込む手口は大変な創案だ。くれぐれも真似をしないで欲しい。ちなみに、こういう傑作を未読だったのは片手落ちなんてものではないと思ったのだが、そういうのはまだまだたくさんありそうな気もする。ご指導のほどよろしくお願いします。以上。(2006/01/14)
アレステア・レナルズ著 中原尚哉訳『啓示空間』ハヤカワ文庫、2005.10(2000)
本書はウェイルズ生まれの作家 Alastair Reynolds が書いた Revelation Space という本の日本語訳。現段階なら本屋さんに行ってハヤカワ文庫のコーナを見ると、異様に分厚い本が置かれているか棚に入っているのに気づくはずなのだが、それがこの本。文庫にして1,000頁を超える大著で、重いのなんの…。それは措いておいて、この作品は、SFの王道とも言うべきスペース・オペラ的物語構造と、ハードSF的科学意匠並びにサイバー・パンク的ディテイル書き込みを持つ、基本的には異星生物とのコンタクトを描いた帯の表現を借りれば「ハイブリッド宇宙SF」(このセンテンス、堺三保氏が書いた解説文と余り変わりませんね…。まあ、誰が読んでもそういう感じかと。)。
時は26世紀、「光速は超えられないこと」が原則として設定されている以上は基本的に太陽系近傍で繰り広げられるお話。といっても、主な舞台は孔雀座デルタ星系などだから、正確な距離は分からないけれどそれなりに遠い。それはさておき、かいつまんで話を要約すると、何とも謎に満ちた場所である「啓示空間」の調査から唯一生還した考古学者っぽい主人公が、その後ある惑星で発見された古代遺跡の謎を追ううちに人類の存亡をかけた戦いに巻き込まれていく、という大変壮大極まりない物語。
どこかで聞いたような世界設定とは言えこれまでに書かれた作品群とは一味違うところだの、複雑な物語構成を持つのに主要な登場人物を極限まで切り詰めることで話を判り易くしている点、主要な登場人物それぞれの人物造形が実に感情移入を喚起させるものである点などなど、随所に様々な工夫が凝らされた傑作で、既に上梓されているこの後に続くシリーズ本も取り寄せちゃおうかな、と思うくらいのものなのである。以上。(2006/01/19)
有栖川有栖著『マレー鉄道の謎』講談社文庫、2005.05(2002)
第56回日本推理作家協会賞を受賞した長編。エラリー・クイーン( Ellery Queen )へのリスペクトを最初から表明していたこの作家による、独自の国名シリーズにして火村&有栖ものの一冊で、丁寧な作りの実に見事な作品だ。
舞台はマレーシアの高原リゾート。内側からテープにより目張りされた密室状態のトレーラ・ハウスで発見された現地人青年の、どう見ても自殺ではなく他殺であろう死体を巡る謎が解明されるまでの顛末を描く。現地取材に基づく、マレーシアという国や社会、あるいはその自然や文化等々についての情報も満載されて物語を彩っている。
433頁までで真犯人と密室の構成法を特定するのに必要な情報は揃っているはずなので、私自身この段階でしばし熟考したのだがこれからお読みになる皆さんも良く考えて頂きたいと思う。実に良く出来たほぼ完全無欠のパズラーであることは保証する。ちなみに、ここで付け加えている「ほぼ」の意味は重大なのだけれど、そこまでは記さないことにしたい。以上。(2006/01/22)
グレッグ・イーガン著 山岸真訳『万物理論』創元SF文庫、2004.10(1995)
原題はDistress。ちなみに、これは作中に現われる謎の流行病に付けられた名前なのだけれどそれは措くとして、この本はオーストラリア出身のグレッグ・イーガン( Greg Egan )が1995年に出したSF長編ということになる。賛否両論を巻き起こした作品だけれど、私としては全面的に「賛」。イーガンの立場は基本的に、この本の中でも揶揄(やゆ)気味に「無知カルト」等々の言葉で語られている所謂「疑似科学」等々の類とは一線を画すものなのであり、要するにイーガンはこの本で正統的な経験科学の枠組みをほんの少し踏み外す程度のことを試みているに過ぎない。この点を理解しないと、この作品は全く楽しめないことになる。フィクションである以上、少し位の跳躍や飛躍が無いと全然面白くないのだし、思うにこれはエンタテインメント作家として全く妥当なやり方でさえある。
一応要約を。時は2055年、科学ジャーナリストの主人公は、この宇宙の自然法則を全て統合する「万物理論」(=Theory of Everything)の完成に立ち会うべく、当の理論が発表される会場であるある種のユートピアが実現されている人工島に赴く。提唱者の一人への取材活動を続けるうちに、とある思想を持つグループと接触し、とてつもない事件に巻き込まれていく。といった具合。ほとんど何も説明してないけれど、これ以上何かを書くとネタばれになってしまうので記さない。些細な部分にも新しさがあって、兎に角情報量の多い作品である。訳文がややこなれていないせいでとても読みにくい、という難点はあるけれど(まあ、ジャーゴンがやたらめったら多くて大変だったんじゃないかと思う。ただ、例えば最後の辺りに出てくるある重要なセンテンスが日本語として意味が通っていないのは問題だ。)、全体としては大変面白い小説であることは保障する。
ところで、1995年という、ポスト・コロニアリズムやポスト・モダン・フェミニズム(サイボーグ・フェミニズムを含む。)が思想史上の一時代を築いていた頃に書かれた作品ということは、読解の上で大変重要なことになる。そういう方面にやたらと精通している作者がこの作品で行なっているのは、その1.まずは「この世界に存在する諸問題についての社会学的認識」とでも言うべきものを示すこと、その2.続いてそれに対する第一段階目としての「社会学的および技術的な解決」がなされつつある世界を表現すること(ここまではかなり現実的)、その3.最後にはそれらについてのとある究極の解決手段を提示すること(これはやはり小説的想像力の産物)、というほぼ三つの事柄ということになるのだと思う。そして、こうしてなされることになる「ユートピアの一つの形式」の提示とでも言うべきものは、願望であるのと同時に痛烈な社会批評にもなり得ていて、実はそういう風に読まなければならない作品だと考えた次第。以上。(2006/02/04 立春大吉)
グレッグ・イーガン著 山岸真訳『ディアスポラ』ハヤカワ文庫、2005.09(1997)
1997年に書かれた上の本に続くイーガンの長編第5作で、SFだと第4作にあたる作品。人文諸科学に一応通じている私みたいな人間だと、基本的には「ユダヤ人の離散」を意味する「ディアスポラ」という言葉に反応してしまうわけだけれど、上記『万物理論』に露骨に出てくるポスト・コロニアル文学・政治批評のような言述というのはこの本にはほとんど見られず、かといって『万物理論』を書いた著者がそういうことを考えていないとも思えず、深読みすればそういうことも見て取れないことはない、という不思議な味わいを持つ作品である。
それは、この作品の舞台や登場する「人格」たちの性格とも関わるところなので簡単に紹介しておくと、時は30世紀、人類の大部分はその人格をコンピュータ内の仮想現実都市に「移送」していた。そんな中でコンピュータのシステム自体から生まれた「孤児」である好奇心の塊のような性格を持つ「ヤチマ」なる人格は、地表に住む人々、他の星に住む生命体、他の宇宙に住む知的生命などと交流することで、色々なことを学んでいく。というようなお話。
当然、オラフ・ステープルドン( Oraf Stapledon)やスタニスワフ・レム( Stanislaw Lem)といった作家が産み出した、「意識の進化」や「異なる存在形態を持つものの間でのコミュニケーション」といったことを主題とする作品群を下敷きにした作品なわけだけれど、両者との違いはその1.それが20世紀末に書かれたことによる科学情報の膨大さと緻密さ、その2.主要な登場人格たちが基本的に人間ではないところから来る時間や空間スケールの取り扱い方の面白さ、といった点にあると思う。
で、タイトルの話に戻ると、この作品における「ディアスポラ」とは仮想現実都市に住む人格たちが自分たちのクローンを1,000個ほど作って太陽系近傍の各恒星系にあくまでも探査を目的として飛び立つ、という事態を表わしている。そういう、科学技術により「イデオロギー上の対立」のようなものが克服されている世界においては、民族集団そのものも、ましてやその「離散」などということはあり得ないわけで、やはり『万物理論』の作者はここでも、今日の世界に存在する諸問題を踏まえながら、その三歩先あたりに広がる地平ないし展望を記述することを目指しているのである。以上。(2006/02/14)