是枝裕和監督作品 『DISTANCE』
『幻の光』、『ワンダフル・ライフ』を撮った俊才・是枝裕和監督が、1995年に起きた宗教法人・オウム真理教(現在は「アレフ」に改称。)による不特定多数の殺戮を目的としたテロ事件を含むもろもろの事柄から想を受け、そこに明瞭に現われた現代社会におけるコミュニケーションの不全(特に、夫婦間、兄弟の間。更には新興の宗教集団という共同体内存在と教団外の一般人の間。そして、被害者と加害者遺族の間、等々)その他について、なかなかに深い考察を巡らした佳作である。

主要な登場人物は5人。舞台は清里付近の山奥。3年前、同地にある首都圏の水源に細菌を混入するという手段によって不特定多数の人々を殺傷する、という未曾有のテロ事件を引き起こしたある宗教集団所属の実行犯は、同事件後に自死を遂げ、彼等の妻や夫、あるいは兄弟といった遺族4人(それぞれARATA、伊勢谷友介、寺島進、夏川結衣が演じる。)は、毎年事件の起きた日になると、同地に被害者及び実行犯達の死を悼むために参集することを慣行化している、という設定。そして事件から3年後のこの日、同地に参集した4人は帰途に着こうとして自動車を盗まれていることに気付き、更には実行犯グループに加わっていたにも関わらず事件の直前に逃亡した元信者(浅野忠信)もまた、同日に同じく同地を訪れていたのだが、これまた乗ってきた自動二輪を盗まれ、同地がとても歩いて帰れる距離ではない山奥であるために、彼等5人は同地近くの放棄された教団施設(小さな山荘)で一夜を明かすことを余儀なくされる、というように話は進む。

このような状況の下、彼等同士の対話の合間に、加害者遺族達及び元信者の記憶がフラッシュ・バックとして挟まれ、3年前の事件や、これを含めた宗教集団を巡るもろもろの事実関係は、あくまでも彼等の対話や独言(本作でのインタヴュー形式は『ワンダフル・ライフ』を踏襲したものである。このスタイルの元になっているのは、勿論Jean-Luc Godardである。)として、即ち言葉=言説のレヴェルで、が次第次第に語られていく。

ここで重要なのは、当の事件や宗教集団については、単眼的ではなくあくまでも複眼的に、即ち多数の人間の言動によって語っていく、という手法が用いられていることであり、前述した1995年の事件について、一部のマスコミや自称「識者」がとったような、多数の人間が関与した複雑な事件を、一つの物語に収斂させて理解しようなどという愚かな在り方とは対蹠的な視座に立っていることである。複眼的な視座に立つことを重視する人類学という学問を専攻している私には、是枝監督の姿勢は全く妥当であると思われるし、更には、このような手法を取ることによって、同監督は〈信者/その家族/そのテロ被害者〉といった人と人との間にある距離=Distanceを浮き彫りにすることに成功している、とも言えるだろう。同時また、〈事件全体を描く〉などという2時間程度の枠の中では初めから無謀とも言えるやり方はせず、むしろそのような方向ははっきりと放棄され、あくまで上記の5人という、〈遺された者たちのその中でもほんの一部の人々〉に話を限定したことは、このような題材を扱う上で、効果的かつ適切なものであるように思う。

なお、この映画が、これまでほとんど語られることもなく、そもそもそれについて語ることが正しいのかどうかの判断が難しいとさえ私には感じられる〈実行犯の家族〉に焦点を当てた点は、勇気ある行為として一応賞賛しておきたいのだが、これはあくまでも本作品が事実から想を得た〈フィクション〉であるから許されるものであろう、ということも述べておきたい。

さて、最後に、例によって蛇足ではあるが、元信者を演じる浅野忠信、そして自死を遂げた実行犯の一人を演じるりょうさん(「両さん」ではないぞよ。)の存在感は、誠に圧倒的であった。この二人の共演は、塚本晋也監督の『双生児』(1999)以来ということになると思う。あの作品におけるこの両名の存在感にも物凄いものがあった。ということで。(2001/06/21)