Stanley Kubrick監督作品 Eyes Wide Shut
映画なんて久しぶりに観た。前々から早いところ観ないといかんなと思いながら、さすがに忙しすぎてのばしのばしになっておったのだけれど、怒濤のロングランのおかげをもって劇場にて鑑賞することが出来た。やはり、この人の作品は劇場で観ないといけません。余りにも完璧な画面構成、音響、その他、きちんと味わうには大きなスクリーンと極上のサウンドシステムを必要とする。この完全主義者が自作品のヴィデオ化やTV放映をある時期まで頑なに拒んでいたのは有名な話である(とはいえ、今日ではそのほとんどの作品が自宅で鑑賞可能である。)。

そんなことはともかく、やはりつつしんでその死を悼みたいと思う。これだけインパクトのある作品を発表し続けてきた映画作家というのは他にはいないのではないだろうか。一作毎に作風を激変させ、あらゆるジャンルに果敢に挑んできた。誠に惜しまれる死である。あらためて、追悼の意を表したい。

そして、その遺作たる本作品について。アメリカ映画界が誇る「おしどり夫婦」を起用し、妄想と現実(どちらもアメリカ社会、ひいては現代社会の病理的な側面が強調される。)が交錯する本作品は、結局のところ同監督のこれまでの作家生活の集大成とも言えるのではないかと思う。逆に言えば、これまでの作品群がおそらく意図的に共通項を省いて作られてきたのに対し、本作品はそれらの作品群の持つモチーフをこれまたおそらく意図的に反復しようとしているのではないかと思われる節がある。本作品を鑑賞しつつ、LolitaDr.Strange or:How I Learned to Stop Worrying and Love the Bomb2001:A Space OdysseyA Clockwork Orangeという、私個人としては同監督のベスト4と考える作品群を想起してしまったのである。Lolitaについては、敢えて言うまでもないだろう。妻子(子供はいたっけ?)ある中年男性の美少女への懸想とその破綻を描いたホームドラマ的色彩の濃い同作品が、作風としては本作に最も近いのは誰しも気付く通り。Dr.Strange…については、<銃=ペニス>モチーフがふんだんに盛り込まれた前作Full Metal Jacketを観れば理解出来る通りの、核兵器という「巨大ペニス」への妄執(ごく最近の某国会議員の発言もそうしたことから出てきたのだろう。余り格調は高くないけど。)が語られていたとも言えることから、深読みすれば関係は深いように思う。2001…とはかけ離れているように見えてそうでもない。「秘密クラブ」の場面(これは要らないと思うんだけど。後述。)なんて言うのは、同作品のラスト近くのボウマン船長による自己想起のシーンと重なって見えた。こういう緊張感を出すのは、本当にうまい。全く見事である。「スター・チャイルド」の誕生についても触れたいのだが、お分かりですね。本作品の最後の台詞は「フ○○ク」。その結果は?思い起こせば、木星へ向かう「ディスカバリー号」なんて、完全に精子(ないしはペニス)の形そのものだった。最後にA Clockwork Orange。この作品との関係を考えると眠れなくなる。同作品では、レイプ・シーンその他を強制的に見せながら苦痛を与えることで、ある青年の暴力性を条件反射的(本当にこんなんで矯正出来るんだろうか?ヴェトナム戦争その他で用いられたと言われる殺人マシン化のための洗脳用サブリミナル・ヴィデオなら少しは説得力があるのだけれど。うう…、Full Metal…にも接続されてしまった。)に去勢していく、というある意味で<明示的な暴力排除>が行われるのだけれど、これはよく考えてみると本作品においては<暗黙的にキリスト教的エトスが指示する一夫一妻制という「清く正しき」生活の強制への疑義>と言うモチーフが、それこそFoucaultの晩年近くの仕事を反復するような形で、よりラディカルに変形されて再出していると見ることも可能なのではないかと思う。

そう考えると、本作品におけるTom Cruiseは基本的に「去勢」されていることになる。Nicole Kidmanだって同じかも知れない。これは、本作品をある視点から解釈する上でとても重要なことである。以下、説明しよう。

そうなのだ、クリスチャンでない私などが本作品を観て違和感を覚えてしまうのは、本作品の主人公である夫婦が、「何でこんなに真面目なの?」という点だろう。不自然に感じられてしまうのは、結婚して何年も経っているのに、マリファナだかなんだかを吸引しつつ語られた、妻が常日頃抱いていたらしい<夫以外の男性に抱かれる>という妄想にショックを受けて彷徨してしまう途轍もなくナイーヴな夫の行動である。<限りなく貞淑な妻>などという「信念」(あるいは「幻想」)を、現代アメリカ白人エリート男性が抱いているとは思えないのだけれど。一昔前ならそうなのかも知れないのだが、それこそ世俗化してしまった状況で、こういうことが起きるのかな?、という疑問を感じざるを得なかった。クリスチャンでない私のみならず、現代欧米人(特に「キリスト教徒」。勿論、「キリスト教と」と一括りに出来るほど事は単純ではないのは分かっているけれど、強いて言うなら、である。)ですら、本作品のようなお話は、不自然に感じられるのではないか、という気がするのである。

そういう違和感は拭いがたいのだけれど、ピューリタニズムが崩壊していると思われる状況下で敢えてそういう状況を仮設定し、それが崩壊していき最後にはどうやら再構成される過程を描くことによって、Kubrickはそれこそ「近代」というものをたった数日間の出来事に凝縮して描こうとしたのかも知れない。しかし、それはそもそも不可能な試みである。ただし、近代史なり何なりという「歴史」なるものが今日の視点からしか描きえないというある種の諦念を逆手にとって、意図的に行っているのかも知れない。Kubrickという人物は、底知れない人なのだから。ちと深読みし過ぎだろうか?ただ、2001…ではそれこそ「人類史」を再構成しようとしてしまった程なのだから、その位のことを考えても全く不思議ではないとは思う。

最後に、これだけは述べておきたいのだが、やはり秘密クラブのお話は不要だったように思う。夫と街娼のお話と、妻と海兵のお話という二つのお話が対位法的に交錯していく、という形の方が、不自然じゃないし、そもそも本作品の恐らく意図する夫婦間ないしは男女間の問題を突き詰めるためには良かったのではないか、などと、注文を付けたくなる。Kubrickともあろう方が、まさか商業的なことを考えた訳ではないと思うのだけれど、違和感を伴う場面であった。それでは何でまたこんなものを持ち出してきたか、という点について深読みをしてみたいのだけれど、そもそもシンメトリカルな画面構成を重んじてきた同監督が、シンメトリカルな物語図式には余りこだわっていない、ということそのものが興味深い。そうそう、Cruise/Kidmanは徹底的に非対称的に描かれているのだ。それなりに行動し(妻の「痴態」を妄想したりもする。)、あげくの果てには秘密クラブにまで踏み込む男性Cruiseと、あくまでも妄想するのみ(付け加えると、それを夫に語ったりもする。)の女性Kidman。どう見ても、イーヴンではない。まあ、男性・女性は現実に非対称、要するにイーヴンではないのだから、仕方ないかも知れない。そんなことまで考えさせてくれる、奥深い作品なのだということだけは確かである。そのための道具が、秘密クラブネタというのはちと頂けないのだけれど…。街娼で十分だったのではないだろうか?

何だか、ほめてんだかけなしてんだか分からなくなってきたな。とりあえず、少なくとも死者に鞭は打てません、ということで。

その他、後年振り返って見ると色々なことに気付くかも知れない。何しろこれまでの作品同様、とんでもなく多義的な解釈が可能な作品であり、そのことが最も重要なのかも知れない。生涯、「問題作」(Barry Lyndon以降の三つの作品はややインパクトに欠けるものの)を作り続けてきた同監督の、最後の「問題作」であることは間違いないだろう。(1999/10/21。10/25に少々加筆。