金子修介監督作品『ガメラ3−邪神(イリス)覚醒−』
小谷真理の挑発(『朝日新聞』4/3朝刊記載の短評)を受けて鑑賞。小谷によると、ガメラは男性原理、ギャオスは女性原理をそれぞれ体現していることになっていて、この作品で描かれるのはその相克であるとのこと。しかし、ギャオスの変化形であるイリス(綴りは多分Iris。Illisではないと思う。そうだとすると何かのアナグラムなのだけれど…。)というのは、名前だけみればギリシャ神話に登場する「虹の女神」であることは確かなのだけれど(実はこの女神、神話中ではメッセンジャーとしての役割を担っている、ヘルメス的な神なのだ。)、ガメラの方はどんな神話にも登場する名前ではないのは措くとして、どうやら地球=大地の持つエネルギー=「マナ」をその活動の基礎にしているらしく、そう考えると、大地神的なところもあるのであって、大地が多くの神話において女性として表されることを考えると、男性原理を体現する、と単純に割り切るのもちょっと、という気もする(ちなみに、ギリシャ神話ではイリスは大地母神ガイアの孫にあたる。)。まあ、ラスト近くで自らの右前足を切り落とす、という象徴的には去勢を表現する行為を行っているのだから(右側を男性に比定する文化が数多いことはよく知られている。)、本作品全体が男性の無力さ(退職し銃を失った=去勢された元警官、役に立たない自衛隊の攻撃、朝倉美都=巫女(山咲千里)に仕える宦官的な印象を受ける結局野望を果たし得ないゲーム・デザイナー=倉田真也(手塚とおる)、秘伝の剣でイリスに立ち向かっても何のダメージも与えられない少年など。)を徹底的に執拗なまでに描いていることを考えると、やはりガメラ=男性原理と考えるのも頭の整理にはいいかな、とも思う。そもそも、この作品においては、ギリシャ神話、メラネシアの「マナ信仰」、更には日本の古代文明だの、冒頭の『易経』の引用やガメラ=玄武、ギャオス=朱雀説などに見られる中国の道教・儒教的モチーフが入り交じっていて、全然整理されていないことから考えると、きちんとした考えなしに手当たり次第に様々な神話的モチーフを詰め込んだだけ、という印象が強く、こちらとしては、恣意的な読解を行っても別に問題はないかな、とも思うのである。それ故、この短評もまた、とんでもなく私的な読解の試みにならざるを得ないことを断っておきたい。
さて、話の中心はガメラに両親を殺された少女・比良坂綾奈(前田愛。双子のもう一人亜季も回想シーンで登場している。双子=共通の遺伝子を持つもの=クローンというのも隠しモチーフである。)による復讐劇である。彼女は両親の死後、奈良県は南明日香村の父方だか母方だかよく分からないオジ・オバの家に弟とともに引き取られているんだけれど、「これって河瀬直美監督の『萌の朱雀』と同じ状況ではないか」、などと下らないことを考えていたら、同じ中学校に通う少女3人(この人達って、どうなったんだ?)による「異人」排除的なイジメにあった綾奈は、同地に住む守部家が代々守ってきた「柳星張」(「二十八宿」ですね。)と呼ばれる遺跡の「要石」的な機能を果たしていたと思われる石を動かしてしまい、これが元でイリスが生まれることになる。この辺り、石井聰亙監督の『水の中の八月』みたいだな、というのはまあおくとして、この「要石」の裏には亀の文様が刻まれていて、イトコの話から勘案すると、これは玄武(黒い亀。北の守護動物ですね。)=ガメラなのであって、南から来る朱雀(赤い鳥。同じく南の守護動物。)=ギャオスから国土を守っているのではないか、という話になっていく。この下り、何でこんな話になるんだ、と笑いながら観ていた。最初のガメラシリーズを作った時にはこんな事は全然考えてなかったんだろうけれど、ひょっとして集合無意識が働いたのかも知れない。亀と鳥の二項対立図式は、「鶴亀」のような形で日本文化の中にもそれなりに根付いているからね。考えすぎだろうか?
ここまで打ち込んできて、段々めんどくさくなってきたので他にも細かいことは色々気になるのだけれど敢えて記載しないことにしよう。まあ、兎に角、この作品のような神話的モチーフの乱用は巷に溢れているRPGや伝記小説の類ではよく見られることなのだし、今更取り立てて騒ぐことも無いだろう(勿論、イリスの生育というモチーフは最近の育成型ゲームから来ている訳だ。下らないことを付け加えると、本作はかなりあからさまにドリーム・キャストの宣伝を意図していたみたいだけど、効果はあったのかな。)。ただ、いかんせんこの作品の作者達の頭が整理されていない、あるいはもしかしたら整理されているのだけれどそれがうまく表現できていないように思われるのが気になるところ。例えば、マナ信仰と『易経』的な世界観という担い手の異なる文化事象が、何で結び付くのか、という辺りを、こじつけでもいいから説明すべきだったと思う。「全ては単一の古代文明の派生物なのだ」、とか、「マナ信仰は実は中国起源」、みたいな形でね。ラストの自衛隊及びガメラによる暴力の全面肯定は頂けないということも付け加えておきたい。全体のトーンが「男性の徹底的無力さの提示」で染め上げられているだけに、最後まで徹底して欲しかったところ。鳥類学者・長峰真弓(中山忍)が最終的に到達する、生存競争としての暴力肯定という近代合理主義的な進化論に根ざした発言もちょっと大人げないような気がする(結局、この辺の生物学的なモチーフ群もまた、何とも未整理で説明不足なのである。)。京都の町の破壊=京大の破壊=京大霊長類研の破壊=共生を説く今西生物学批判ということなんだろうか?これもまた考え過ぎかな?(1999/04/10)