北野武監督作品 『HANA-BI』
北野武の第7作。ご存じの通り、北野武はこの作品で昨年のベネチア国際映画祭金獅子賞をとってしまった訳だが、私見では本作品は基本的には「心中もの」だと思うので、「近松」を映像化した溝口健二が第二次大戦後のある時期にヨーロッパにおいて物凄く高い評価をされていたという事実と考えあわせると、なんだかヨーロッパ(あるいはイタリア?)における「日本的心性」だの「日本的情念」についての理解は相変わらずそんなものなのかともちらりと考えてしまった。もう一つ付け加えてもいい。この作品は要するに「ハラキリもの」でもあるのである。そうしてみると、この作品は実のところなんだか日本古典文学の主要モチーフを並べ立てているだけなのだと言えなくもないことになる訳だ。もしそうだとすれば、本作品は何とも単純明快かつ予定調和的な、「心中もの」あるいは「ハラキリもの」だ、ということになる訳で、そういう作品が今更作られねばならない必然性を全く感じない私などはここで批評を打ち切ってしまってもよいということになるのである。さらにはまた、この作品があっさりと、「心中もの」や「ハラキリもの」といった言葉だけでカテゴライズ出来てしまうようなものだとすれば、北野武はその監督第1作である『その男、凶暴につき』の持っていた基本的な図式である「か弱い女とそれを守る凶暴残忍かつ剛健な男の愛と悲劇的な死」をより素朴な形で反復しているに過ぎない訳で、もしその程度の作品であるのなら、まあ、「原点回帰」とか「初心に帰る」などという事も出来ないことはないかも知れないけれど、悪く言えば「ネタ切れ」あるいは「限界の露呈」とも言えてしまい、やはり批評を打ち切らざるを得ない事になるのである。しかしながら、嬉しいことに本作品はそんなに単純なものではなく、実際には「心中もの」あるいは「ハラキリもの」でありかつまた、そこからはみ出してしまう部分こそが肝要なのであって、今日のヨーロッパ(あるいはイタリア?)の批評家達が必ずしも上記のような単細胞かつ単眼的な見方をしているとは限らないし、別の部分を評価した可能性もあり、そうであることを信じたいと思う次第である(ちなみに、私はヨーロッパにおいて本作品がどう解釈されているのかについては全く分からない。調べれば簡単に分かることではあるのだけれど。)。
すなわち、それを見慣れていないヨーロッパ人にとっては相変わらず物珍しいかも知れない、それに則ったある作品がどんなに愚劣な形態をとっていようとも、それこそが芸術だなどと勘違いしてしまう可能性すらあるような、今日の日本においてもなお生産され続ける「心中もの」あるいは「ハラキリもの」的な物語構造に、ありがたくもこの島に生まれたがために小さい頃からさらされてきたおかげでいい加減食傷気味になっており、そういうものとは一線を画すような新鮮な「映画の文体=エクリチュール」を希求するに至ることが出来たような私のようなものにとっては、本作品からは、そういうややありきたりな図式からの脱却を図ろうとする、過剰なまでの意志の表出を感じ取ることはさほど困難なことではなかったということである。それは上記二つの古典的なモチーフからはみ出す部分の中心的要素である、第3作『あの夏、一番静かな海。』辺りから明瞭になってきていたように思う、北野武的な、という形容詞付きの「癒し」あるいは「救済」というモチーフなのである。自らのミスで下半身不随となり、妻と子に見放され、自殺を企てさえもする元同僚を「癒す」べく、ビートたけし演ずる元刑事は奔走する。この元同僚が癒されていくプロセスは、下半身不随のために必然的に引き起こされる「移動力の低下、あるいは静止していること」という状況のなかで、「花」を主題にした絵を描き続ける事である。この作品では、このことと、ビートたけし演ずる元刑事が、不治の病に冒された妻と「移動力の著しく強力な」自動車によって逃避行を続けつつ、彼を追うヤクザを殴り、蹴り、しまいには射殺し、自らも妻とともにどうやら銃による心中をとげるに至るという、「硝煙と血しぶきにまみれた死への疾走」とも言うべきものを対比的に描く事によって、両者の印象をより強いものにしているように思う。これとも関係するのだが、私見では本作品のタイトル中の「HANA」と「BI」の間にハイフンが打たれている事には、単に漢字表記における「花」と「火」を分離するというローマ字表記上の技術的なレヴェルにとどまらない重要な意味があるのであって、「花」の絵を描くことによる「癒し」のプロセスと、「発砲=火」による「死」へのプロセスの対比を強調するものであるのだと思う。勿論、こういう物語自体が持つシンメトリカルな構造は、「花」にも、「花火」にも共通のものだ、ということも付け加えておきたいと思う。
ただ、そういう「死への疾走」と、「静かなる癒し」の二重構造、という物語構造さえも、何とも予定調和的ものだ、とも言えなくはない。しかしながら、後者の「癒し」の物語については、「癒し」の完成を示すような場面は結局のところ現れないし、実のところこの元同僚とていずれは死を迎える訳なのだから彼の日常を描くことは実は「緩慢なる死」を表現している事に他ならないのだし(結局のところ究極的な「癒し」は、「来世」や「再生」が確実なものであると予見されることによってのみ可能なのだろう。今日においては、いかなる宗教もそういう確実性は与え得ないように思う。本作品に散りばめられた「天使」その他の超越的存在はあくまでも絵の中に佇む他はないのだ。)、前者の「死」の物語にしても、ラストの2発の銃声が果たして本当に「二人」の「死」を意味するのかどうかはやや曖昧にされたまま終わる。この辺りの何とも言えない余韻がこの作品の命なのではないかと思うのであるがいかがなものだろうか。
最後に、もう少し深読みするならば、咲いては散り咲いては散りを繰り返す「花」はある意味では「死と再生」を反復しながらの永続性を象徴し、銃から放たれる「火」あるいはあっという間に消える「花火」の「火」は、それぞれ一瞬のうちの死を象徴するものとも取れる。さらに言えば、元同僚がなそうとした睡眠薬による自殺は「緩慢なる死」という意味で銃による「瞬間的な死」とは対極をなしているのだし、彼はその存在自体が近い将来における死を内包している「花」を画用紙に描き付けることによって、それにほぼ完全な永続性をもたらしている、とも言えるのである。描かれた「花」は枯れないのだ。勿論撮影された「花」も。さらには撮影された「花」の絵もまた…。
なお、蛇足かも知れないが、たけし演ずる元刑事の妻の病は作中で医師が述べているように良くなるものではなく、やはり近い将来に死を迎えることは明白であり、これもまた、元同僚とたけし演ずる元刑事の死の中間とも言える「やや緩慢な死」とも言える訳で、これを一瞬の元に死に至らしめることはまあ有り体の言葉で言えば「安楽死」なのだろうけれど、これもまたある意味では「癒し」ともとれないことはなく、この辺にも北野の持つ「死生観」や「救済観」の現れを感じ取ることはたやすいだろう。ただ、もし2発の銃声が文字通り心中を表しているのなら、妻の死に関しては「自己決定権の剥奪」と見ることも出来る訳で、この辺りはもう少したけし演ずる元刑事が最終的な行為に至るまでの逡巡だの葛藤だのが描かれても良かったように思うのだが。余りに明確な意志と目的と実行力を持った、妻の生殺与奪権をも握る独善的かつ家父長的な主人公にはやや違和感を感じる。まあ、二人の全国行脚がそれを表現していると見ることも出来なくはないのだけれど。(1998/04/09)