Jean-Luc Godard監督作品 Histoire(s) du cinema
フランス系スイス市民のJ-L.Godard監督のライフ・ワークにして、「映画の世紀」とさえ言いうる20世紀の掉尾を飾る壮大かつ偉大なる作品である。今回の上映は、既にTV放映されていた1A、1Bに、2Aから4B迄の6章を新たに付け加え、どうやら完成された事になるらしいヴァージョン。全部で4時間半に及ぶという事もあってか、あるいはユーロ・スペースの商業的な戦略の為なのか、作品の前半(1Aから2B)・後半(3Aから4B)を分断して上映した事の是非は問われなければならないが、これだけの情報量を含む作品を2時間半、2時間というそれ程短いとは言えない時間の間集中して観ることさえ大変で、そういう意味ではこの方式も無難なものであった、としておきたい。まあ、歴史的フィルム(自作を含む)を、あるいはサウンド・トラックとして用いられている歴史的音楽作品をぶつ切りにしてかつごたまぜにして差し出すことを全く厭わないこの人だから、二分割位はかえってシンメトリカルで美しい、などとも考えていかねない、という事を述べておこう。
さて、咀嚼が充分でないのだけれど、本作の印象を一語で表すなら、「映画史とは、近代史である。」という事になるだろうか。H.ベルクソンが100年位前に見抜いていた如く、映画という情報蓄積・伝達形態は正しく近代というものの集約とも言い得るものなのである。これと関連してもう一つ印象深かったのは、執拗なまでに繰り返される第2次世界大戦、乃至はナチズムについての言及であった。ナチス・ドイツが映画をそのプロパガンダの為に大いに利用した事は周知の通りだけれど、1960年代に極めて共産主義サイドよりの政治フィルムを大量に生み出し、それなりに社会的影響力を及ぼしたのではないかと思われるこの映画作家はその事自体には言及していないのだけれど、3Aにおいてイタリアのレジスタント的映画が賞賛されているのを見ると、要するにGodardは、映画という極めて強力なイメージ喚起力及び意識変革力を持つメディアの、有効性と危険性(use and abuse?)という二面性を、強烈に意識しているという事が良く分かると思う。そうそう、近代の落とし子であり且つまた近代とほぼイコールであるとも言える映画もまた、そういう両刃の剣的な性格を共有するものなのである。近代によっては近代が乗り越えられないのと同様に、映画によっては映画は乗り越え得ないのだけれど、その事を認識しつつ、ほんの少しのジャンプを試み続ける事こそが、近代人に課せられた課題なのだろうと思う。破天荒な形式を持つ本作品も、結局は映画に過ぎないのだけれど、映画の乗り越えのみならず近代の乗り越えをも指向するGodardの意欲的且つ精力的な活動は、誠に賞賛されるべきものであろう。
まとめよう。この作品は、映画についての映画、それも中途半端な形ではなく、映画について、そして自身がそうである映画作家というものについての徹底的な内省を行いつつ、更にはこれまた徹底的にメタ・レヴェルに立ち振る舞う事に拘る事で実践しようとした恐らくは人類初の試みであり、そしてまた、映画というものが今後存在し続けるとして、それは如何なるものであるべきか、を指し示すような、予言ではなく、ましてや預言ではなく、提案と意見に満ちた極めてラディカルなものなのだ、という事を述べて終わりにする。(2000/06/18。2005/11/02に若干改訂。)