Raoul Ruiz監督作品 Le Temps Retrouve
M.Proust作『失われた時を求めて』の最終第7巻『見出された時』の、チリ出身のRaoul Ruiz監督による、豪華キャストを擁しての映像化である。この企画を聞いた当初から「無謀な試み」、と思っていたのだが、その予想は外れなかった。そもそも、ある一定の時間の中で、不可逆的な時間の流れを伴って上映される映画という表現形態は、Proustが目指したような、読者に各部分の再読を幾度と無く要求し、一センテンスを読む度毎に沈思黙考を必要とさせる小説技法とはそぐわないのである。かつて映像化された「スワンの恋」の部分に関しては、一定のプロットやフレイムが存在するのでその試みはある程度成功していたけれど、今回はそれとは異なり、そこまでの6巻分の知識を踏まえなければ読む意味がないし理解することが不可能であるこの第7巻を、映画という表現形態によって再構成することはやはり不可能である、ということを証明しただけの作品となってしまった。例えば、原作の文体や書法を全く無視して、映画という表現形態によって表現可能なプロットを同じ素材を元にして新たに組み立てることは可能だったのかも知れないが、それをやってしまえばわざわざこの作品を原作にする意味が失われてしまう。このようにして、これは色々な意味で無謀な試みだったである。

なお、若い時分に原作を数ヶ月かけて熟読した私にとっては、この映画で言及される全ての登場人物について、それがどのような人物で、第7巻の記述においてどのような意味を持つのかが良く分かっているので、この映画を理解するのは別段困難ではなかったのだが、原作を読んでいないか(大部分の鑑賞者がそうであろう。)、あるいは斜め読みしたに過ぎない方々には、この2時間強は単なる拷問だろう。私の近くでも、爆睡して大いびきをかいている方がいらした。もう少し工夫が欲しかったところ、と言いたいのだけれど、そもそもいかなる工夫をしても無駄であろうことは前述の通りである。そうそう、原作を読まずにこの映画を鑑賞した方々の感想が聞いてみたいものだ。なにがしか得るもの、感じるものはあっただろうか?

最後にもう一言。20世紀初頭における貴族達の生活風景の再現は確かに見事なものであり、一見に値する。特に、「ヴァントゥイユ」という作中人物が作曲したという設定の音楽が素晴らしいと思う。あの頃のフランス作曲家の手法を見事にコピーしている。ただ、それは良いとしても、原作の要(かなめ)である基本的にネオ・カンティズムの影響が濃いように思う時間と記憶に関する思索や(これこそがあの小説のメイン・テーマである。なお、この映画では、名高いラストの数行は見事に無視されている。)、大変な深みにまで達している芸術論・政治論をすっ飛ばしているのは問題で、そういうことの映像化もまた極めて困難ないしほとんど不可能なのは分かるにしても、どうにかならなかったのか、あるいはまたそれができないこの作品の映画化という作業には何の意味もないのではないか、などと考えた次第である。(なお、Retrouveの最後のeは右上がりアクサン付きである。英語タイトルがTime Regainedというのも、何となく笑える。名(迷?)訳だな。)(2001/04/20)