David Lynch監督作品 Lost Highway
ほとんど理解不能であったリンチの原点ともいうべき作品『イレイザー・ヘッド』あたりの作風に戻ったどころか、さらに不可解な作品である。そもそもこの人の作品の基本には「物語性の徹底的な排除」があるように感じられる。これはいわゆるヌーヴェル・ヴァーグという枠でくくられがちなJ.L.ゴダールやA.レネの作風にも通底するものであった。リンチの出世作『エレファント・マン』や、ある意味ではこれまた訳の分からない通俗SF映画『砂の惑星』(これをリンチが撮ったことを知っている人がどれだけいるのだろう。)といった大がかりな作品群ではそうした姿勢はむしろ「排除」されていた。分かりにくいながらもそれなりの「物語性」を持った『ブルー・ヴェルヴェット』、『ワイルド・アット・ハート』の二作品が受容され、TVドラマ『トゥイン・ピークス』が爆発的なヒットを飛ばしてしまったことが、彼をして原点に帰らせたのであろうか(経済的・精神的な余裕、あるいは全く逆に…)。
はじめに「不可解」と書いたが、リンチの作品は不可解ながらも強烈な印象を刻み込む。それは観賞後数日間を経てじわじわと浸透してくる。「暴力・ポルノグラフィー・ドラッグ・狂気・オカルティズム」といった、言葉で書いてしまえばたわいもない事柄を、映像と音楽(懐かしいディス・モータル・コイルがふんだんに用いられている。)のブリコラージュ的かつモザイク的な作品で表現すること、あえていうならばリンチ的語法によって鑑賞者に染みわたらせること。こうして私も日本語を用いたテクストによってリンチの作品を「批評」しようと試みているのだが、打ち込んでいるうちにその不可能性に気付いてしまっている。上のような体験を言語化するなど不可能なのではないかということである。
一つだけいいうるとすれば、リンチの作品が不可解なのはそもそも「現実」が不可解であるからなのだという当たり前のことであろうか。リンチはそういう現実を「物語」的に「解釈」することのむなしさを改めて問うている、という「解釈」をしてしまいたくなる。もちろんこれは現時点での私の個人的な「解釈」であって、実はそのようにして「現実」を「理解」したことにして安心感を得てしまうことへの疑義を突きつけられたこと(これも私の勝手な「解釈」かも知れないが。)に対する、ささやかな抵抗の試みに過ぎないのかも知れない。(1997/7/8)