Larry&Andy Wachowski監督作品 The Matrix
日本製アニメーションへのオマージュとすら言うべき作品。しかし、それを実写でやってしまうハリウッドの底力を改めて痛感する。全然違和感がないのだ。ただ、話の半分はヴァーチュアル世界の中で繰り広げられているのだから、そこでの場面がディジタル処理されているのは、むしろ当然とすら言えるのかも知れない。

物語自体はきわめて単純明快。ユダヤ・キリスト教的、ないしはグノーシス主義的系譜に属する黙示文学に見られるメシアニズムである。対立するのは人類と人工知能。「電源」としての活用価値が高い「家畜」である人類を隷従させるべく、人工知能は「マトリックス」と呼ばれるヴァーチュアル世界を作りだし、人類をそこに接続して「現実」とは異なる世界で生活しているという幻想を見続けさせている。統治するには統治されているという事実を隠蔽するのが最も効率的、という事ですね。勿論、人工知能による統治は完全ではなく、家畜化されていない人類が少なからず存在し、「ザイオン」という場所に住んでいるらしい。その実体はほとんど明らかにされないのだけれど、物語はその数少ない家畜化されていない人類と人工知能の対決、という図式をとる。ただし、物理世界=現実世界での闘いは余りにも人類側には不利である、という設定らしく、あくまでも破壊工作はマトリックス内で行われることになる。すなわちマトリックスの破壊ないし解体は内部からしか行えないらしい。「脱構築」というやつでしょうか。これを妨害するのが人工知能側の送り込んだエイジェント3人衆。これがめっぽう強い。このエイジェント3人衆を打ち破るべく、ザイオンのエイジェントはマトリックス内の住民である天才ハッカーNeo(Keanu Reeves)に目を付け、彼をオルグし、再教育し、メシアとしての覚醒を促そうとするのだが、果たして彼は真のメシアなのか、というのが物語の焦点となる。結末はご自身でご確認下さい。といっても、ほとんど見え見えなのだけれど。

「ザイオン」なんてのは勿論「シオン」のことなんだけれど、この映画の作者たちの日本製アニメーション・オタクぶりを考えると、『機動戦士ガンダム』における「ジオン公国」が含意されているのは多分間違いない。絶対に見ているはず。もう一つ。マトリックス内での戦闘は銃撃戦も勿論だけどエイジェントとの闘いは基本的に肉弾戦で、そのための「柔術」だの「クンフー」だのを主人公たちは身につける事になる。マトリックスとは別のヴァーチュアル空間内での「修行」だの(分かりますよね。どうせなら、「本家」通りに時間が遅延されるようにするべきだったかも知れない。Neoは一刻も早く敵エイジェントを超えなければならないのだから。時間遅延ぐらいは技術的に可能でしょう。)、「銃弾よけ」だの、「銃弾受け止め」なんてのもあって、こりゃ絶対『ドラゴン・ボール』から来ているのだと邪推する。そもそも、「占いばばあ」まで登場するのだ。「予言者」と言われてはいたけれど。その他、『アキラ』だの『攻殻機動隊』だのの影響は誰でも気付くので、別に私が取り立てて述べるまでもないのだが、一応書き留めておこう。映画技法としての「視点の取り方」みたいなものは基本的にここから借りている。確かによくシミュレートしています。マトリックスのデータ形式表示に半角カナが出て来ていたのだけれど、この辺も作者の「日本へのこだわり」を感じさせる。ここまで来ると、ひょっとしたらこの二人、実は「日本語ぺらぺら」なのかも知れない。それ位の人は最早ざらにいてもおかしくないだろう。主人公の行く末を決定付けるのが「青い薬」と「赤い薬」のどちらを飲むか、なんてのも、「これって、ひょっとして手塚治?」とまで思わせる。まさか英訳されていないでしょう。それとも、されているのか?

ちと気になったのは、現実世界とヴァーチュアル世界の往還は電話線を通じて行われるのだけれど、交信は携帯電話でも可能であるという設定である。これがあるから、敵エイジェントからの逃避、というのがより困難になって、物語にメリハリがついたり、ゲーム化したりするのに便利、ということなのだろうけれど、同じ情報伝達なのだから、往還も携帯を通じて行われても別に不思議じゃあない。ハードウェア乃至ソフトウェア上の制約ということなのだろうか。この辺の説明は欲しかったところ。

最後に、この映画と前後してJ.P.Hoganの『仮想空間計画』(大島豊訳、創元SF文庫、1999(1995))を読んでいたのだけれど、最近の欧米SFにおけるヴァーチュアル・リアリティ(VR)技術は、この映画でもそうであるように、脳に直接接続する、というのが基本になっているようだ。これに対して同じくVR技術を取り扱った岡嶋二人の『クラインの壺』という傑作では、身体の表面に刺戟を加える、という方法がとられていた。デカルト的な心身二元論に基づく欧米スタイルのVRと、一元論とまではいかないけれど身体にもそれなりに重きをおく日本的VRという発想の根本的相違がひょっとしたらあるのかも知れない。そうだとしたらこれは大変面白いことだ。一つの比較文化論構築の可能性すら垣間見えてしまうのである。(1999/10/25。10/28に若干加筆。2003/06/28に背景色・文字色その他を変更。)