Christopher Nolan監督作品 MEMENTO
ロンドン生まれの新鋭、Christopher Nolan監督による、「画期的」サスペンス・スリラー。確かに、評判に違わぬ傑作で、大いに楽しませていただいた。とりあえず、米国はもとより、日本での大ヒットも頷けた次第。
何を記してもネタバラシになるので、作品の中身への言及は極力避けることにする。ただ、それでも宣伝文句その他から私の中で構成された鑑賞前の知識を示すのは反則ではないと思うからそれを記すと、要するにこの作品は「妻をレイプされかつまた殺され、その事件の際に10分前の記憶が失われる短期記憶障害に陥ったある男が、犯人を探し出し復讐を果たそうとするプロセスを描くもの」なのだ、いう風に考えていた。まあ、基本的な設定はそれで良いとしても、映画の中では時間は遡行するは、回想が織り交ぜられているはで、誠に一筋縄ではいかない。よくもまあ、これだけ複雑な脚本を書き上げ、それを恐らくは物凄い低予算できっちりと映像化し、編集したものだと、つくづく感心させられた。本当に天晴れな才能である。
この映画の基本モティーフは、勿論ラテン語で「記憶せよ」なり「覚えとけ」なりというほどの意味になるんだろうタイトルからも分かる通り「記憶」である。これも鑑賞前に得た知識だから反則ではないことを断りつつほんのチョットだけ中身に言及すると、要するに主人公は約10分間しか記憶を保てないために、その犯人探しにあたってはポラロイド・キャメラとメモ、そして体に入れ墨を施すことによって、収集した情報を「10分後の私」(以下、「そのまた10分後の私」、…と続く。なお、今時、既にポラロイド社が事業から撤退を表明したローテク・ポラロイド・キャメラなどではなく、スティル・キャメラ付きのモバイルPCくらい使えよ、という突っ込みを入れたいところはあるのだけれど、時代設定が少々昔なのだと考えればそれは問題なし。)に引き継いでいかざるを得なくなっているのである。実のところ、この設定は、大変画期的であると同時にまた、社会学的に極めて重要な問題点を見事に照射するものなのである。
そうそう、話し半ばで主人公が「記憶」の「曖昧さ」ないしは「信憑性のなさ」を巡って語るのだけれど、要するに例えば「裁判」というのは曖昧で信憑性のない「記憶」によって行なわれるのではなく、あくまでも「文書」化された「記録」によってなされるのだ、と。ふむふむ、誠に啓発的である。無文字社会での「裁判」がいかにしてなされるのか、そもそもそれは可能なのか、ということに思わず思考が飛んでしまいそうになるのだけれど、それは置くとしても、この映画は、短期の「記憶」能力を失った男を主人公に据えることによって、社会なり個人なりが、実のところ「記録」によってしかそのアイデンティティ(=自己同一性。この訳語も、この映画の脈絡で使えばそんなに悪くはない。)を保ち得ないのではないか、更にはまた、その「記録」なるものに人は何故より高い正確さの保証と信憑性を与えているのか、それはもう一度疑ってみるべきものではないのか、等々といった問題提起をしつつ、ネタバラシになるので多くは語り得ないある一定の、これまた秀抜な解答を与えているのである。うーん、誠に深い。
最後に蛇足。「記憶」を重要なテーマとして数々の傑作を書いていたのは言わずと知れたP.K.Dickだけれど、ドラッグ・カルチャーへの言及を怠っていないこの映画も基本的にそこから多くを学んでいるように思う。人は「記憶」に基づいて思考・行動を行なう、と卒論に書いたのは他ならぬ私だが、最近の研究活動が「記憶」ではなく「記録」の方に比重を移して進められてきたことに、気付かせてくれたこの作品は、まさしく私の「記憶」に長くとどまるものになるだろうことを述べて、終わりにする。(2002/01/18)