David Lynch監督作品 MULHOLLAND DRIVE
アンチ・ハリウッドを掲げていると思いきや、案外ハリウッド映画的なものも何本か撮っているアメリカ映画界きっての鬼才にして天才監督による、昨年のカンヌ国際映画祭最優秀監督賞を受賞した最新作である。私見では、これぞ正しく、他の誰にも<絶対に>創ることの不可能なD.Lynchならではの映画なのであり、その独特の映像・音響・メタ物語世界には思わず引きずり込まれ、うなるしかないのであった。
そうそう、上述のようにハリウッド的な映画も幾つか撮っているとは言え基本的にはアンチ・ハリウッドなこの監督が、この作品ではとうとうハリウッドを、しかもハリウッド映画界を舞台にしてしまったことは映画史上における一つの事件だろう。前半部(時間的には全編で2.5時間の内約1.5時間くらい。でも、この人の映画においては、客観的な時間経過はどうでも良いことなのだ。主観的な時間経過、いやより正確には時間そのものが無化される夢ないしバッド・トリップに似た感覚こそが、Lynch映画の基調である。)はどう見てもそれなりに普通の(とは言え、その実結構異端的な部分も多々ある)正統派ハリウッド映画の文体で物語を紡ぎつつ、後半部ではそれをぶち壊し、観客をも煙に巻きつつ、要するにハリウッド的産業映画様式に対する徹底したアンチ・テーゼをぶちかます。
とは言え、ことは単純ではない。前半の物語はMULHOLLAND DRIVEというハリウッド近郊に実在する道路で事故に遭い記憶を失った謎の美女(Laura Harring)が、Naomi Watts演ずるBetty Elmsなるハリウッド女優の卵の下宿に逃げ込むところから始まる。大金となんに使うのか良く分からない「青い鍵」しか持っていないことからこの美女が「訳あり」と判断したBettyは、彼女(=謎の美女。部屋にあったRita Hayworthのポスターから、自らをRitaと命名する。)と共にその身許を突き止める作業を開始するのだが、この話自体はそれなりにハリウッド式サスペンス・ムーヴィの定石を踏んで進行していくことになる。
さよう、ここでは前半部の造りが基本的にハリウッド式であることと同時に、そもそも主人公二人の名が、往年のハリウッド映画に数多く出演していた二人の名女優からとられていることに注目しなければならないだろう。ちなみに、「Betty」と言えばBetty Davisである(綴りは要確認。)。更に言うと、謎の美女がMULHOLLAND DRIVEからハリウッドに向かう途中のシーンで、しっかりと「SUNSET BLV.」という道路標識が映し出されるのだ。ここまでくると、取り敢えず少なくとも前半部分については、本作品がハリウッド映画へのオマージュ、という観方も不可能ではないことがお分かりであろう。
ただし、勿論、後半部では明らかにハリウッド式の予定調和性は全く失われ、そもそも主役二人の役名すら変化してしまうという驚くべき反則技さえ使ってしまっているために、これまた少なくとも後半部に関しては前述の通りハリウッド映画へのアンチ・テーゼ、という観方も、同じく妥当なものなのである。
そろそろまとめに入ろう。結局のところ、この作品をアンチ・ハリウッド映画ととるか否かは、最早観客の判断にゆだねられていると思うのだけれど、まあ、ごく個人的な見解としては、結局極めて「両義的=アンビヴァレント」な作品、というところに落ち着くのではないかと考える次第。この作品もまた、毎度おなじみの様々なシンボル=象徴と寓話に満ち溢れたLynch作品の一本なわけで、シンボルや寓話が持つ両義的性格については別段人類学が指摘せずとも明らかなもの。ということで、この作品はシンボリックにも寓話的にも、正しくアンビヴァレントなものなのだ、と述べて締めくくってしまおう。
なお、この映画がハリウッドを舞台にしていることから、以上のごく私的な短評ではハリウッド映画との距離ないし関係について言及するにとどまってしまったが、これだけ複雑な構成を持ち、難解とも言える作品ともなると、その批評はある側面に集中させるのがベターである、ないしはそれ以外にはない、と判断したためである。実のところ単純な両義性を超えた、より正しくはむしろ「多義的」な作品なのだから、観客はそれぞれの観方をすれば良いのだし、評論についても同じこと。まあ、それは置くとしてもこの極めて主観的かつ個人的な見解しか表明していない小論が、同作品の理解に少しでも役に立てば幸いである。以上。(2002/02/23)