Ethan & Joel Coen作品 O Brother, Where Art Thou?
本欄の常連である、Ethan & Joel Coen兄弟による、1930年頃のアメリカ南部はミシシッピ州を舞台としたドタバタ・コメディ。原案は「ホメロス」(英語だとHomer。)なる人物が著したとされている叙事詩である『オデュッセイア』(同じく英語題はThe Odyssey。こんなに有名な作品を読んでいない人はまさかいないと思うけれど、念のためダイジェストをウェブ上で見つけたのでリンクを貼っておきます。題して、「忙しい人のための『オデュッセイア』」だそうです。)。その大胆なる翻案である本作品は、脱走した3人の囚人(George Clooney, John Turturro, Tim Blake Nelson)が「お宝」を求めて彷徨し、それと時期を同じくして同州で行なわれていた知事選挙だのダム建設だのが相俟って引き起こされる大騒動とその顛末を描く。
この兄弟らしい、適度なひねりと風刺と諧謔がうまく混じり合った、誠に良くできた脚本には脱帽。盲目の予言者・テイレシアース、誘惑する女妖怪・セイレーン、一つ目の巨人・ポリュペーモス(キュクロープス人の一人)、地獄の番犬・ケルベロス、貞淑な妻・ペーネロペー(本作品ではHolly Hunterが演ずる。この人がCoen兄弟作品に登場するのは、多分Raising Arizona(1987)以来誠に久方振りということになる。ちなみに、かの有名なJames Joyceによる同叙事詩の翻案同様、全然「貞淑」ではない女性として描かれる。)等々の主要登場人物その他達がきちんと登場して、物語をいやが上にも盛りたてる。ああ、楽しい。
まあ、そういう翻案のあり方も大変面白いのだけれど、本作品が絶妙なのは、大恐慌後のアメリカ合州国南部における、所謂ニュー・ディール政策のもとでの「発電」を目的としたダム建設だの、当時普及の一途をたどっていたはずの「レイディオ」を利用した選挙活動だのといった形で、それこそコミュニケーションの手段が一気に「電気化」されるという一種の転換期を見事に描き切っている点にあると思う。原案となった叙事詩が成立した頃のギリシャというのも、考えてみれば〈口承文芸が文字化され流布される。〉というこの叙事詩の成立プロセス自体が示しているように、口頭文化から文字文化への移行期であったとも言えるわけで、超インテリのCoen兄弟は、この辺をきちんと踏まえているように思われてならないのである。
なお、ついでに言うと、再洗礼派とおぼしき宗教集団と「K.K.K.」を思わせる白人至上主義秘密結社の儀式におけるそれぞれ合唱、セイレーン三人娘による合唱、知事選挙で用いられるカントリーないしはブルーズといった形で、本映画においては至る所において「音楽」ないしは「歌」が重要なアイテムとして用いられることについて言及しておかなければならないであろう。政治と宗教には、「音楽」ないしは「歌」が付き物であることを、改めて認識せねばならない。
最後に更についでなのだけれど、ホメロスによるとされる叙事詩もまた、元々は吟遊詩人達によって「歌われていた」ものであったという学説が、一般には認められている、ということも念のために述べておこう。詳しくは、未だ邦訳が出ないので原書第2版を買って部分的に読んでしまったAlbert B. Lordの余りにも有名な著作である、The Singer of Tales,2nd edition,Stephen Mitchell and Gregory Nagy(eds.),Cambridge : Harvard University Press,2000(1960)を参考にして頂きたい。以上。(2001/11/02)