Tim Burton監督作品 Planet of the Apes
ご存じ1968年製作になるかの傑作『猿の惑星』(原題はやはりPlanet of the Apesである。他に何を作った人なのかサッパリ分からないFranklin J. Schaffnerという人物が監督をしている。ちなみに原作はこれまた他に何を書いたか分からないPierre Boulleによる。)の、確かに鬼才あるいは奇才と呼ばれるにふさわしいTim Burton監督による大胆なリメーク版である。

全編を貫く、「浅い」とは言え、「何でここまで拘るのか?」ということ自体が興味深い人種差別問題への言及、篦棒(べらぼう)な費用をかけた特殊メイクアップと特殊視覚効果、更には何ともTim Burton的な笑えるラストなど、それなりに楽しめたのだが(1,000円で入れた、ということも手伝っているのだが、それは置いておこう。)、今回は一SF読者として、本作品における基本的な部分の出鱈目さにきちんと突っ込んでおこう。

何しろこの作品にしてもオリジナル作品にしても、基本的な考証が全く荒唐無稽ないし無茶苦茶なのであり、それははっきり言って「幾ら何でも客をナメている」レヴェルのものなのである。まあ、オリジナルが作られた1960年代なら許されたのかも知れないのだが、幾ら何でも今日における(というより、「1970年代以降の」、だね。)SF作品の水準を考えると、「これでは困る。」、と考えた次第。以下、その点について述べよう。

さて、オリジナル作品と同様に、この作品においてもまた、主人公の男性宇宙飛行士(Mark Wahlbergが演じている。)がとある惑星に不時着し、「地球で発生・進化したサルに見える生物」と「地球出身のヒトに見える生物」(あくまでも、そう「見える」だけである。一応見知らぬ惑星に降り立ったことになっているのだから、解剖学的レヴェル、ないし遺伝子レヴェルでは別の生物である可能性を主人公は考えなければならない。)と出会うことになるのだけれど、その、「サルに見える生物」と「ヒトに見える生物」達が、20世紀後半あたりのアメリカ合州国ではなされていた口語=アメリカ英語を話しているのを見て、「何でこいつら英語をしゃべっているんだい?」という根本的な問いなり何なりを一切発しないのは、どう考えても不自然なのである。

深読みすれば、そういう問いを発しないということはすなわち、主人公は「ひょっとしてここは地球ないし地球の植民惑星なのか?」とかいったことを考えているはずなのだけれど、もしそういうことであるならば、どこかの場面でその点をきっちり仄(ほの)めかすべきだっただろう。

言語使用を巡っては、他にも、「高々数千年で、ここまで発話能力が発達するはずはない。」という突っ込みも可能なのだが、余り深入りするとネタばれになるし、まあ、一応遺伝子操作が施されている、という設定なので、それこそ「進化」が加速されたのだ、ということで納得しておこうと思う。

最後になるけれど、この「テキトー」な作品が、それなりの興行成績をあげてしまったということによって、オリジナル製作から30数年を経て、人類は全く進歩しなかった、ということが図らずも証明されてしまったように思う。かく言う私自身は、この30年で著しく進歩したのだけれどね。まあ、それはあくまでも個体発生レヴェルの次元の話ではあるけれど…。ということで。(2001/09/07)