Leos Carax監督作品『Pola X』
8年振りの新作。この作品が本年のカンヌ映画祭で上映されたのを知ったときには、良かった、Leos Caraxはまだ生きていたんだ、と感動してしまったのだが、早々の封切り。シネマライズ渋谷とLeos Caraxは誠に切っても切れない関係にあるのだと、今さらながら思う。メルヴィル原作の本作品には、これまでの作品の常連であった、かつてのCaraxの妻である米国アカデミー賞女優Juliette Binoche(ちなみにこの人は2本だけ。)も、Denis Lavant(この人は3作全部に主演。)も出演していない。それだけで、8年という年月を感じてしまう。Binocheが大女優になってしまったのは周知の通りだけれど、Lavantはどうなってしまったのだろう。生きているんだろうか?この人の映画を観るにつけ、監督も出演者も、現実世界でもいつ死んでもおかしくないよな、と言うような絶望感に捕らわれてしまうのだ。この監督は人間が壊れていく様を描くことに執着してきたのだけれど、本作品はそれを徹底したものと言っていい。主人公の外交官の息子である上流階級の青年ピエールは精神的・肉体的に文字通り「壊れていく」のだけれど、それが彼の愛用する自動二輪の壊れていくプロセスと重ねられていて、何とも痛ましい。映画は虚構なのだけれど、ここまで演じさせると、実生活にも影響が出てしまうのではないか、と思わせる。BinocheがLes Amants du Pont-Neuf(邦題『新橋の恋人』、じゃなくて『ポンヌフの恋人』)でこれまた精神的・肉体的に壊れていく画家の役を演じていたけれど、どうもこの夫妻の不和の原因は同作品の結末を巡ってのことだったらしい。誠に驚嘆すべき作家根性である。どうか、死なないで欲しい。しかし、こんなどん詰まりの作品を作ってしまったら、後がないような気もする。どうなってしまうんでしょう。 それはともかくとして、エンド・ロールを見ていてたまげたのは、音楽担当者として挙がっていたScot Walkerの名。知る人ぞしるカルト・スターである。それもおいとくとして、この作品の面白さは、主人公達が逃げ込んで生活を始める、あるカルト・ミュージシャン(ここで使われているノイズ&エレクトロニック・オーケストラ・サウンドがいい味を出している。)がボスとなっている、独自の防衛組織を持ち、あらゆる階層、国籍、人種の人間を受容し、それなりに支配もする、いわば「アサイラム」(この作品で描かれたアサイラムにはキリスト教的な意味あいはない。)とも言うべき場所の描写である。保守化が進み、とみにフランス国籍不所持者が住みにくい状況となっているフランスにおいて、こういうことが本当にあるのかどうかは知らないけれど、あっても全然不思議ではないような気もする。この辺りの設定は、岩井俊二や、山本政志の映画を髣髴とさせたのだが、それこそ網野善彦的な意味での日本における「無縁」なり何なりと、西洋におけるアサイラムなりアジールなりというものが持つ共通性はやはり興味深いものがある。そうしたものは、今日の日本の文脈だと例えば「オウム真理教」になるのだろうけれど、フランスではどうなのだろうか。国籍・人種問題が相対的に深刻なのであろうフランスでは、事情が異なるので別の展開をしているかも知れないが、その辺りについてどなたかにご教示頂ければ幸いである。(1999/11/11)