John Madden監督作品 Shakespeare in Love
William Shakespeare(Joseph Fiennes)を主演とする、古典的味付けの恋愛コメディ。作品が残っている以上は実在したと思われるWilliam Shakespeareについてはその人物像に関して不明な点が多いので、本作ではその人物造形その他についてはやりたい放題に脚色されている。本人だかどうだかはよく分からないらしい有名な肖像画があるけれど、こんなに二枚目じゃないよね。舞台に立っていた、という事実についても、寡聞にして知らないし、ましてや革ジャンなんてもんが当時あったとは到底思えない(これはDiCaprio版Romeo and Julietのパロディなんだろうけれど。)。まあ、そういうことは抜きにして、徹底的に、それこそエリザベス朝演劇的な「お芝居性」をふんだんに盛り込んだなかなかの良品ではないかと思う。私見ではこの作品の持ち味はこの「お芝居性」なのであって、映画において、のみならず舞台演劇その他において、そんなものは描けるはずがないと私自身は考えているリアリティを持ち込んだ振りをしている、本作品と一緒に本年の米国アカデミー賞候補に挙げられていた某作品などに比べて、よっぽど正直かつ謙虚なのではないかと思うのである。本作のお芝居性は「男女入れ替え」に関わる部分に多分に現れていて、Viola(Gwyneth Paltrow)の男装にShakespeareがなかなか気付かない(普通分かるよね。)、とか、同じくViolaがどうやって鬘の下にあんなに大量の髪の毛を隠していられたんだろう(後で撮影したのが見え見え。しかし、この人の女優根性も大したものだ。ばっさり切ってしまったんだから。あっ。ブロンドの長髪の方が鬘だったりして。幻惑されているな。)、といったところに現れている。結局のところ、この作品はWilliam ShakespeareのRomeo and Juliet及びTwelfth Nightのパロディなのであって、そのことを隠し立てもせずにやっているそれこそお芝居なのだから、そうしたお芝居作成上の文法には一般観客がそうすることを期待されているように目をつぶって純粋に楽しむなり、あるいは私がやっているようにそういう文法の存在について改めて考え直すなり、ということをすれば良いのだと思う。
とかなんとか言いながら一つだけ突っ込みを入れるとするなら、本作ではあたかもWilliam Shakespeareオリジナルであるかのように扱われているRomeo and Julietだけれど、確かにその執筆・改変プロセスはとても面白かったのだが、実は中野好夫による新潮文庫版『ロミオとジュリエット』解説によれば、この作品の元ネタは「アーサー・ブルックの物語詩「ロミュスとジュリエット」(一五六二)」であるそうな。この映画を観て、「本作品は、Romeo and Juliet成立過程における作家の実生活の反映の可能性という新見解を打ち出した」、なんてことを真面目に考えてしまった方がいたら、それは大間違いで、これはどこまでも徹底的に虚構=お芝居なのだ、ということをどうか忘れないで欲しいと思う。えっ、そんなことを考える奴はいないって?いやいや、世の中意外に素直な方が多いのですよ。極端な例だけど、Star Warsが現実に起こった/起きている話だと思っていた人を私は知っている。

以下、本当は本作で描かれたかに見える「真実の愛」のようなものが、実のところ近代ヨーロッパにおいて現れたものに過ぎず、実はそういうイデオロギーの出現に与ったのが大衆演劇や文学だった、云々ということに言及したかったのだが、このところとみに忙しいのでやめにする。(1999/06/03)