David Cronenberg監督作品 Spider
余りの不入りのせいか、ロードショーの規模はあっという間に縮小され、結局「お台場シネマ・メディアージュ」という<幕張から行くにはそこそこ便利だけど…。うーむ、何なんだここは…。>という場所で鑑賞。「東京テレポート」などという何のことだか良く分からない駅を使うべく、新木場から出ている「りんかい線」なる「私鉄」(JRと相互乗り入れしてます。寝てしまうと、埼玉まで行ってしまう。)に初めて乗ったのだが、別に「りんかい」を平仮名にしなくても良いのではないかと詰まらないことを考えてしまった。誠に、この世界には理解しがたいことが多い…。
それはさておき、この映画の監督はかの奇才David Cronenberg。新聞だのウェブ上での紹介・論評などを少々みていたので、実のところその鑑賞においては難解かつ暗澹とした内容からある程度の苦痛を味わうかも知れないとさえ覚悟はしていたのだが、それには相反して作り手自体の現実が崩壊しているんじゃないかとさえ思えるDavid Lynch辺りの映画ほどには破綻の少ない、要するには巷間言われる程にはさほど分かりにくいとは言えない内容を持つ作品であった。ただし、暗澹この上ないことは確かであり、要は娯楽性ないし商業性をまったく考えていない作品ということは間違いなくて、これなら最初から単館公開にしてもっと観客層を絞り込んだ方が良かったのでは、とも思う。
舞台は英国の恐らくはロンドン。Ralph Fiennesが演じるSpiderという名(なのか?)の精神病者が、どうやら解放治療を病院との契約で行なっているとある「家」に入居するところからこの映画は始まる。彼の精神的破綻の原因はどうやら幼少時の経験にあるらしく、彼は入居した家の中でそれを想起、あるいは創出しつつ、恐らくは彼にしか分からない文字によって文章化していくことになる。映画は文章化された「物語」と、それを書き綴る男の「日常」を同時進行で映像化していく。かれが紡ぎ出す(英語だと、weaving。だからこそ彼は Spider なのです。)「物語」の中身についてはここには敢えて記述しないけれど、それはこの映画では時系列的に整序された形で並べられ、極めて分かり易い形で映像化されているので、すっきりと理解出来るもの。何が事実で、どこからが彼の妄想なのか、という点はぼかされているけれど、そんな第三者的な見方はどうでも良くて、というよりはそんなことは誰にも決定できることではないわけで、取り敢えずは彼の中である種完結した一つの陰惨な物語が成立していることを見届ければ良いのだと思う。まあ、こういった症例において、果たしてここまで論理的に破綻の少ない物語構成がなされ得るのかどうかは私自身良く分からないことではあるのだが…。
ちなみに、解放治療場とおぼしき舞台設定、そこで書かれる手記、等々、色々な意味で夢野久作の紡ぎ出したかの小説『ドグラ・マグラ』を思い起こしてしまった。まあ、あのウルトラ・メタ小説はこの映画の数十倍複雑怪奇ではあるけれど…。それは措くとして、夢野久作のかの作品において描かれた「父の二重化」が、この映画において「母の二重化」という形で再現している点が興味深かった次第。心理学ないし精神分析学をテーマとする文学は(この映画の原作はPatrick McGrathという人が書いている。何ともアイリッシュな名前である。)、半世紀以上この辺りの問題に焦点をおき続けてきたのかな、などとふと考えたのであった。以上。(2003/04/15)