Sarah McLachlan Surfacing
カナダ出身の天才シンガー・ソング・ライター、Sarah McLachlanの4年ぶりの第4作である。「まもなく国内発売されるらしい」などと8月13日に書き込んだが、9月26日までずれ込んだ。結局輸入盤を見かけることなく、国内盤を入手した。
この人は実は全米で初登場2位を記録してしまうような人なのだが、日本での知名度はどうやら異様に低いらしいのでちょっとだけどういう音作りをしている人なのかを書く。最近は他にこういうことをしている人を余り見かけないのだが、あえていうならDavid Sylvianの80年代中盤あたりに一番近いのかも知れない。遊佐未森とかKate Bushにも通ずる所はあるが、ほんのちょっとである。シンセサイザーの使用は極力避けられていて、打ち込みはほとんど使っていないし、「ロック色」も「ブルース色」もさほど強くない。初期のGenesisやYesも基本的には継承しているように思うアイルランドあるいはスコットランドのトラッドやフォークをベースに持つのかも知れない。この辺りのいわゆるブリティッシュ・プログレッシヴ・ロックの音作りにも似た部分はある。
本作でも大体これまで通りのファルセットを駆使した、さらに言えばますます磨きのかかった見事な歌唱と、アコースティックかつシンプルな演奏スタイルを継承しているが、前作までは割合濃厚に存在したほのかな「ロック」色は第@及び第B曲を除けばほとんど払拭されている。各楽曲の洗練度は物凄いもので、全然無駄な音がない、と言いきってしまってよいだろう。なお、欧米では初夏に発売されたわけだが、これは私の感じからすればどう考えても秋から冬にかけて聞かれるべきアルバムなのではないかと思う。大変しっとりとした仕上がりになっている。これからしばらくの間愛聴盤となるような気がする。
以下は余談であるが、McLachlanが北米の名だたる女性アーティストを集めてライヴ・イヴェントを行っていることはだいぶ前から聞いていたが、その名をLilith Fairと言うのだとは知らなかった。今や日本では小学生でも知っている「アダムの最初の妻」であり、かつまた一部のフェミニストから「最初のフェミニスト」とまで言われる「リリス」が、欧米のユダヤ・キリスト教文化においてはこんな形でイヴェントの基本テーマを代弁するような使われ方をされるような存在であるということを再認識させられた。McLachlan が「リリス・フェア」などというタイトルをどういう脈絡で思いついたのか非常に興味がある。「リリス」信仰については、現在私が進めている女性と宗教を巡る考察の中でいずれ取り上げなければならないと思う。ただ、今のところデータが不足している。さほど突っ込んだ研究がなされているものではないように思う。特に日本では。
なお、第3作Fumbling Towards Ecstasyについても、シャーマニズム論の見地からきちんとした分析をいずれ行いたいと考えている。なにしろ、一曲目のタイトルがPossessionであり、しかもアルバムのタイトル・ナンバーでもある最後の曲Fumbling Towards Ecstasyの後には、隠しトラックでピアノ弾き語りヴァージョンのPossessionが納められているのだ。予告までに。(1997/8/13。10/12全面改訂。10/14わずかな修正。)