Wim Wenders監督作品 The End of Violence
今日における最も重要な映画監督の一人であると見なして良いだろうWim Wendersの最新作。でも、残念なことだが、そんな人がこんな程度のものしか作れなくなってしまったのか、という慨嘆を禁じ得なかった。ストーリーは余りにも単純。今時ハリウッドお得意のアクションものや、その他多々あるB級ホラーやB級SFでもこんなに単純ではないように思う。この映画の主人公である映画プロデューサーが創っているのがそうした類のものらしく、暗にそうした映画界の現状を揶揄しているようにも思われるのだが、もしそうだとすれば、そんなどうでもいいこと事をテーマにするほど落ちぶれてしまったのか、とまたまた慨嘆せざるを得ない。
主演はIndependence DayLost Highwayに主演していたBill Pullmanである。この2作品との関係を考えることはそれなりに面白く、Pullmanの台詞には前者に対してのあからさまな批判とも取れる、「仮想敵を幻想し続けなければアメリカ合州国は存続し得ない」、というようなものがあるし、後者について言えば実は本作品はその解説篇とも見られないことはないということを述べておきたい(何故そうなのかは省略する。)。ただし、そんなお遊びのせいかも知れないし、そもそもそれを描き切る力がもはや残っていないせいなのかも知れないのだが、本作品の主要テーマらしき「暴力」というものに関する、創り手がもしかしたら表現しようとしたかも知れない何らかのメッセージその他は全く見えてこない。父親にレイプされた経験を語る黒人女性や、顔に傷を負った白人女性スタントマン(スタントウーマン?)、弟を射殺された黒人男性ミュージシャン等が通う集団カウンセリング・サークルみたいなものが出てくるのだけれど、私見ではWendersはここで語られる小文字の「物語」に重点を置くべきだったのであって、興業主の意図によってそうなってしまったのかも知れないが、というWenders擁護を一応述べておきつつ、Wendersがこの映画をFBIだか何だかによる国家的な規模での「暴力」についての大文字の「物語」に回収せざるを得なかった事が残念でならない。小文字の「物語」による「歴史」の再構築と見なすことが可能だった『ベルリン天使の詩』以降の作品はどうもそういう傾向が強くて、「どうしちゃったんだ」、といらいらしているファンも多いことだろう。私もその一人なのである。
なお、どうでもいいことではあるけれど、この日は電車の中でP.K.Dickの『ライズ民間警察機構』(創元文庫)を読んでいた。この映画が平板に感じられたのはそのせいかも知れない、という事も付け加えておきたい。(1998/03/18。03/22に僅かな修正。)