Enki Bilal監督作品 Tykho Moon
渋谷パルコ・スペース・パート3にて鑑賞。しかし最近渋谷によく出没している。まあ、それはともかく本作品について述べよう。
まず監督。どこの出身なのだろうか(ベルグラードである事が後に判明。)?この映画は仏・独・伊合作映画なのだが、台詞はほとんどフランス語なので一応フランス映画と考えることにしたい。実のところフランス映画界には誠に外国出身者が多い。例えばA.ゼラウスキーやK.キェシュロフスキー等ポーランド出身者や、J.L.ゴダールらスイス出身者が挙げられるだろう。E.ビラルなどという不思議な語感を持つ名前はどの辺り特有のものなのか?それはともかくとして、ビラルが劇画作家らしいことは朝日新聞にも出ていたが、どういった作品を作っているのだろうか。ほとんど日本には輸入されていないはずだ。日本という国は漫画・劇画・アニメーションに関しては圧倒的に輸出国なので、致し方ないところではあるけれども。
主演はジュリー・デルピー。この人はキェシュロフスキーの『トリコロール・白の愛』に出ていた女優である。その他にミシェル・ピコリなどそうそうたる顔ぶれがそろう。半端ではない。
さて、肝心の物語自体は至って単純である。月表面の独裁者マクビーのコロニーが舞台である。独裁者の家名がマクビーであること、独裁者の妻がマクビー家の暴政について懐疑していること、マクビー家が敵対する立場の人間によってではなく、謎の遺伝病(間違いなく女の腹から生まれたのではない。)に侵されて死滅しかけていることなどを見れば分かる通り、明らかにシェイクスピアの『マクベス』を意識している。死滅しそうなマクビー家は彼らへの臓器提供が可能な唯一の人間であるらしい通称「ティコ・ムーン」と呼ばれる人物を捜索し、生き延びようとする。ティコ・ムーンとおぼしき人物は以前の臓器提供以来それ以前の記憶を失っていて、コロニーの周辺部の鉱物採掘所で鉱石を掘り出す作業で生計を立てているのだが、ある日作業所を追われ町に出る。そしてマクビー専制国家の警察組織の手によって何度か捕まりかけるが、謎の男と謎の女(これがデルピー。)にその都度助けられる。ティコ・ムーンが生き延びる道としては、マクビー家を打ち倒すか、月表面のコロニーから脱出するかの二通りがあるわけだが、ティコ・ムーンは結末近くでマクビー等の手によって捕縛されてしまい、果たして結末は如何に、という訳である。
正直言って、この話にはG.オーウェルの『1984』のような怖さはない。何故なら、圧制者がはっきりとした姿形をもって登場するからだ。こういう可視の圧制者を打ち倒すのは比較的たやすいように思う。フランスは何度かクーデターや革命を経験した国だが、そんなところからこの作品に見られるような「圧制者はたやすく打ち倒せる。」という発想が出てきたのかも知れない。それに対して英国はフランスのようなはっきりとした革命を経験していない国である。そんなところから、『1984』における「ビッグ・ブラザー」のような、不可視の、さらに言えば仮想的な圧制者による徹底的な支配というような図式が出てきたのかも知れない。もっと言えば、『1984』の場合ビッグ・ブラザーなどという単一の圧制者より恐ろしいものに感じられるのは、むしろその国家では人々が相互に監視し合うような支配システムが達成されているという点である。不可視でありかつ全ての人々が自らもその支配構造に組み込まれているような社会がそこでは描かれていたように思う。こういう支配構造を認識しさらにはそれを解体することはそれほどたやすいことではない。ヘーゲルのいう奴隷と主人の支配関係のように弁証法的(あるいは史的唯物論的に)に解消する、というわけには行かないのである。(この映画のような極めて単純な「悪としての独裁制」というイメージに比べれば、和製アニメーションである『機動戦士ガンダム』における「ジオン公国」や同じく『銀河英雄伝説』における「銀河帝国」の方が余程複雑だし、屈折している。なお、日本もまた、革命を経験していない国である。)
相互監視システムとしての近代社会というヴィジョンを打ち出したM.フーコーを輩出したフランスにおいて、本作品のような余りにも優しい支配者像が今なお描かれてしまうのは、何故であろうか。『ルイ・ボナパルトの…』におけるK.マルクスの嘆きの意味が、今更ながらよく分かるように思われた。(1997/8/13、8/22に小さな修正)