井上夢人著『もつれっぱなし』講談社文庫、2006.04(1996→2000)

一作ごとにこれだけ作風を変える作家も珍しいんじゃないかと思う井上夢人が、ソロ・デビュウ間もない1992年から1996年にかけて『オール讀み物』にボチボチ連載し、1996年に単行本化した作品の講談社文庫での再刊。6作がすべて男女の会話のみからなるという形式を持っていて、更にはその中身は第1篇「宇宙人の証明」から始まってすべて「何とかの証明」という題がつく、という統一が図られている。
まあ、兎に角、この人の他の作品同様、何を書いてもネタばれなので踏み込んで書けないその内容は実に面白いし、何にもまして文章が素晴らしい。そういうこともあるのだけれど、「誰かに何かあり得そうにないことを証明する」、とか、「やってもらうのがかなり無理なことをお願いする」、というような場合に使える話術も学べてしまうように思われた。以上。(2006/10/04)

石田衣良著『アキハバラ@DEEP』文春文庫、2006.09(2004)

TVドラマ、映画、コミック化と、映像化作業が進む2004年秋に単行本化された小説の文庫化。小学生から大人まで楽しめる娯楽作で、こぞって映像化がなされている割には意外と外連味(けれんみ)の少ない良い意味で「渋め」の作品になっていて、「優れた」とまでは決して言えないのだが、なかなかに良い出来映えなのではないかと思う。
その内容はと言えば、5人のオタク青年と元コスプレ喫茶嬢によって起ち上げられた会社=「アキハバラ@DEEP」が開発した画期的な検索エンジン=「クルーク」(ちなみにこの語は藤木稟の連作小説タイトルでもある。)を巡り、彼らと、ソフトバンクとソフマップとライヴドアをミックスして悪質度をプラスしたような設定の大手情報企業=「デジタルキャピタル(略称デジキャピ)」が対決する、というお話。
さてさて、要約してみて気付いたのだが、言ってしまえば実はそれだけの話で、その基本プロットは極めて単純なものだ。ただし、話は単純とはいえディテールはかなり作り込まれていて、IT関連技術だのアキハバラ文化とでも言うべきものの最新動向を、石田がきっちりと押さえていたことが良く分かる。
そういうディテールを私のような読者は愉しく読むわけだが(結構勉強になったりもする。)、問題はやはり全体の基本構成あたりにあって、敵味方が「はっきりし過ぎ」なことだの、敵企業のワンマン社長が余りにも単純に「悪」なことだの、終盤の「そんなにうまくいくかよ」的展開には物足りなさも感じた次第。W.ギブスン(William Gibson)の一連の作品や『攻殻機動隊』シリーズ、あるいは『マトリックス』シリーズのような歴史に残る「電脳モノ」との違いはその辺にあるのだと思う。以上。(2006/10/08)

阿部和重著『シンセミア I II』朝日文庫、2006.10(2003)

2003年に刊行され、伊藤整文学賞・毎日出版文化賞のダブル受賞を果たした大長編の文庫化である。ちなみに全体では4分冊になり、今月発売されたのは前半の2冊、ということになる。分厚くても良いからまとめて出して欲しかった、と思うのだが電車の中で読むには悪くないお手頃な大きさとなっている。
詳しくは最後まで読んでから書くつもりなのだが、この作品は基本的に、私も調査でしょっちゅう行っていた山形県村山地方に位置する阿部和重の故郷でもある東根市神町(じんまち)を舞台とする、愛(というより端的に「性」なのだが)と暴力をテーマとする群像劇になっている。
興味深く読んだのは、この小説の骨子の一つである同町の権力構造とか支配構造を描くのにあたってそこに横たわる「世代間格差」のようなものが強く意識されていることで、団塊以上の世代では端的に政治家や暴力団的な人々によるある種の実効的支配が、そして彼らの子供達の世代では『1984年』における「ビッグ・ブラザー」的な、相互監視による支配が目指される、というような話になっている。取り敢えずそんなところである。(2006/10/17)

村上春樹著『アフターダーク』講談社文庫、2006.09(2004)

村上春樹による現時点での最新長編の文庫化である。文庫で294頁もあるからそれなりに長いのだけれど(とは言えいつものことながらあっという間に読み終わるのだが…)、東京のどこかで、23:56から翌朝の6:52までの約7時間という比較的短い時間内で起こった事柄を描いた作品となっている。
中国語が得意な女子大生、その「眠れる美女」な姉、若いトロンボーン吹き、元女子プロレスラのラブ・ホテル管理人、良く分からない暴力男などなど、いかにも村上作品らしい人物たちが繰り広げる群像劇なのだけれど、やや意外な点は叙述の視点が超越的な第三者に置かれているところだろうか。この人の小説でこういう記述方式の作品を思い出せないのだが、いかがなものだろう。
ファミレスやコンビニのBGMだの、そこで提供されている商品や置かれているモノなどなど、やたらと細かいところまで気を遣う辺りもこれまたこの作家らしいのだが、全く予定調和的でない、文学的なカタルシスみたいなものもさほど強くは感じ取ることが出来ないこの淡々とした筆致で書かれた作品は、そういう細部をこそ読み込むべきなのかも知れない。以上。(2006/10/21)

酒井順子著『負け犬の遠吠え』講談社文庫、2006.10(2003)

2001年末から連載開始、2003年秋に単行本化され、大ベストセラーとなり、講談社エッセイ賞、婦人公論文芸賞を受賞した作品の文庫化。文庫化にあたっては、4人の「オス負け犬」達との対談及び林真理子による解説が付されている。まあ、正直な話、この解説は要らないと思ったんだけどね。
「負け犬」という言葉は余りにも広く使われるようになったので(もう死語だけど。)、特に説明はしない。遅ればせながらちゃんと中身を読んでみて分かったのは、このコラムニストがそれなりに卓越した文章技巧を持っていることと、晩婚化という社会問題へのスタンスのとり方がとても戦略的でかつまた妥当なものであるという2点である。
本の紹介から話はそれてしまうのだが、3年前に出て社会現象ともなったベストセラーを、大学その他の講義で「晩婚化」だのそれと密接な関係のある「少子化」だのといった問題を扱っている研究者が今頃になって読んでいる、というのはとても「まずい」ことで、反省した次第。今後はちゃんと単行本を買って読もうかと思う。基本的にBOOK OFF利用になると思うけど…。以上。(2006/10/22)

夢枕獏著『陰陽師 太極の巻』文春文庫、2006.03(2003)

夢枕版『陰陽師』第6短編集の文庫化。あとがきにも書かれているとおり、1988年の第1弾刊行から15年経ったある意味節目に当たる年に出された作品集ということもあり、著者自身もこの絶大なポピュラリティを得るに至ったシリーズが自身の代表作となりつつあることに特別な感慨を抱いているようだ。まあ、私個人としては『上弦の月を喰べる獅子』(1989、早川書房)こそがこの人の代表作だと思うし、それはたいがいの人がそうなのではないかと考える。
それはともあれ、この作品集、どうやら岡野玲子が作画をしたコミックの原作ないしは原案というポジションから最早遠く離れてしまっていて(というより、正確には岡野版が離れていったのだが)、陰陽師・安倍晴明とその親友・源博雅が京の都周辺で起こる小さな規模の怪事件を解く、という基本パターンから一切外れないプログラム小説集となっている。そんなこともあってか、「これってどこかで読んだような気が…」、という感じの話がちらほら現われている。
相変わらずその文章は素晴らしいわけだし、そういうプログラム小説的なあり方というのも悪くないとは思うのだが、一向に「大きな物語」に移行する気がなさそうに見える、というよりはあとがきを見る限りこのままでいくことはどうやらこの作家の中では決定事項であるようにさえ思われる本作を読むことにより、岡野版の後半部分がいかに凄まじいものなのかを改めて思い知らされたのだった。(2006/11/03)

森博嗣著『虚空の逆マトリクス INVERCE OF VOID MATRIX』講談社文庫、2006.07(2003)

ご存じ森博嗣による講談社文庫内では第4弾となる短・中編集。本格ミステリからSF、コメディ、あるいはファンタジまでというような、実に幅広い領域にまたがる7編からなっていて、そのヴァリエーションの多さに目を瞠(みは)った次第。
コンピュータ・ウィルス・ネタの「トロイの木馬」(何ともベタなタイトルなんだが…)、本文中で披露されている回文が何とも素晴らしい「ゲームの国」という、もの凄く理系っぽいテイストの2作が特に面白く読めた。ちなみに、商業上入れざるを得ないのだろう犀川&萌絵モノも一編含まれていることを記しておく。以上。(2006/11/04)

桐野夏生著『グロテスク 上・下』文春文庫、2006.09(2003)

直木賞作家・桐野夏生による大長編の文庫版である。初出は『週刊文春』における2001年から2002年にかけての連載で、単行本は2003年刊。第31回泉鏡花文学賞を受賞しているが、金沢生まれのこの作家にとっては特別な思いがあったかも知れない。
「わたし」には、自分と似ても似つかない絶世の美女の妹ユリコがいた。「わたし」は幼いころからそんな妹を激しく憎み、彼女から離れるため名門Q女子高に入学する。そこで「わたし」は、佐藤和恵と知り合う。彼女はエリートたちに認められるべく、孤軍奮闘していた。やがて、同じ学校にユリコが転校してくる。「わたし」は二人を激しく憎み、陥れることを画策するが…、というお話。
本書のベースになっているのは良く知られた「東電OL事件」である。一応あの事件に対する、桐野夏生なりの解答、とも読むことができる小説なのだが、決してそれだけにとどまっておらず、恐らくはあの事件などが象徴する、もっと大きな流れを描こうとしているように思われた。
出世作だった「村野ミロ」シリーズを事実上「終わらせた」桐野夏生が、いよいよ本格的に現代社会と格闘し始めた、そんな「戦闘開始」を告げるかのような、何とも凄まじい作品、と申し上げておきたい。。以上。(2006/11/07)

折原一著『チェーンレター』角川ホラー文庫、2004.03(2001)

やや古いものだが一応許容範囲内。それはさておいて、本書は「青沼静也」名義で2001に刊行されたホラー作品の文庫化である。文庫化に際しては、既に知名度のある折原一(おりはら・いち)名義に変更された。どうやら、単行本の売れ行きはかなり厳しいものであったらしいのだが、文庫の方はどうだったんだろうかとも思う。
さてさて、中身はと言えば、いわゆる「不幸の手紙」もどきな「チェーンレター」が主としてとある町の住民の間で流通し始め、それを無視した人々が何者かの手で撲殺されていく…、という話。本業がかなりゴリゴリな本格ミステリ作家なので、ホラーとはいっても基本的に余り超越的ないし逸脱的領域に話が行っていない辺りが特徴である。ちなみに、ごく簡単に感想を記しておくと、それなりに面白く読めた、と言ったところ。そんなところで。(2006/11/13)

法月綸太郎著『法月綸太郎の功績』講談社文庫、2005.06(2002)

2002年に出たノベルス版の文庫化。短・中編規模の作品5本からなる作品集なのだけれど、どれもが非常に緻密な論理構造を持つ本格ミステリ作品に仕上がっている。基本的にかなり寡作なこの作者だけれど、様々なメディアに掲載された作品を集めても数年(どころではない?)でやっと一冊程度にしかならないわけだ。この辺りは致し方のないところではある。
個人的には、例のエラリー・クイーンへのオマージュ競作中の一編である、ダイイング・メッセージを主題とする「イコールYの悲劇」、第55回日本推理作家協会賞受賞作にして2003年には風祭壮太の作画によりコミックにもなった「都市伝説パズル」が面白かった。以上。(2006/11/15)

小川洋子著『博士の愛した数式』新潮文庫、2005.11(2003)

今更という感じではあるが、約3年前に刊行の寺尾聰・深津絵里主演で映画化もされた大ベストセラー小説の文庫版である。ご存じかと思うけれど一応記すと、本書は80分しか記憶の持たない初老の数学者と家政婦及びその息子との心の交流を描く、ハートフルな作品で、年齢を問わず広く受け入れられた模様。
理系な私にとっては特に難しいことは書かれていないのだけれど、「整数論」だの「オイラーの公式」といった数学に関する部分よりもむしろ、家政婦の息子が阪神タイガース・ファンであり、ついでに初老の数学者が江夏豊ファンであるといったような、本書の中心テーマからはややそれるとは言え、その実結構計算ずくで作り込まれているようにも思われるディテイル=野球ネタが面白く読めた次第。以上。(2006/11/18)

阿部和重著『シンセミア III IV』朝日文庫、2006.11(2003)

単行本版では下巻にあたる、4分冊で刊行された文庫版の後半部分である。前半で語られた3人の死の余波とその後の顛末、折しも台風直撃によって引き起こされ「神町」に甚大なる被害をもたらすことになる洪水、「産廃」設備建設等々を巡る影の支配者達の闘争、ロリコン警官と少年少女達の相克、盗撮サークルの暴走と崩壊などなど、何ともカタストロフィックな展開を経て物語は収束へと向かう。
一見変な人ばっかりな登場人物達が、その実類型的極まりないというか、最早語り古された感があるのは確かなのだが、それは作為的なものではないかとも思う。少なくとも本書における語り口の巧みさや、基本的に『聖書』や各種神話等々に依拠している物語構造・モティーフ群の散りばめ方などに現われている、この作者の構成力・構想力についてはそれなりに秀逸なものではないかと思う次第である。まあ、良く考えてみるとそう言ったものも確かにやや使い古されたものではあるのだが…。
まあ、こういったどこどこクロニクル的な物語というのは過去にも書かれているわけだけれど、恐らくは誰もが引き合いにするはずの大江健三郎や中上健次、あるいは最近では高村薫が書いているようなものに比べると、文体の濃密さ、ディテイルの緻密さという点で見劣りするのも事実ではある。付け加えると、例えば終盤における「釣瓶落とし的カタストロフィ」の描写にしても、例えば村上龍が書いてきた一連の超大作などに比べるとやはりあっさりした、というか何ともごく普通の文体が使われているのは、確かに作為的なのではあろうけれどそれは文章技巧として「練られていない」あるいは「工夫が足りない」という感想を禁じえなかった次第。以上。(2006/11/23)