奥泉光著『シューマンの指』講談社文庫、2012.10(2010)

今日の日本において最も重要な作家の一人に違いない奥泉光による、2010年に生誕100年を迎えたロベルト・シューマンを題材にした、そしてまた講談社創業100周年を記念して書き下ろされ刊行された、純文学的テイストの濃いミステリ作品である。文庫版の解説は片山杜秀が担当している。
ざっと概略を。物語の語り手はかつて音大のピアノ科に在籍したが挫折して医学部に入り直したという来歴を持つらしい人物。音大受験の準備をしていた頃、同じ高校に入学してきた天才ピアニスト・永峯修人(ながみね・まさと)と知己になった彼は、永峯からシューマンの音楽について手ほどきを受ける。
その努力もむなしく語り手が受験に失敗し浪人生となった春休みの夜に、事件は起きる。高校の音楽室で永峯が弾く「幻想曲」を聴いた直後に、プールで同校の女子生徒が殺害されたのだ。真相がうやむやになっていく中、永峯はあたかもシューマンがそうであったかのようにその指を失う。だが、語り手の許には、海外にわたった永峯が、シューマンを弾いている、という噂が流れてきて…。というようなお話。
メタ・フィクショナルな入り組んだ構造のミステリにして、シューマンの、特にピアノ曲に関する膨大な蘊蓄を含み込んだ評伝的な作品でもある。シューマンの音楽が持っている雰囲気を文体や人物描写などによって醸し出しつつ、エンターテインメント作品として、そしてまた文学作品として非常に完成度の高いものになっていて、その辺りはさすがにこの作家、である。読むものに濃厚にして豊潤なひとときを提供すること必至な、極上の作品、と述べておきたい。以上。(2012/12/06)

三津田信三著『凶鳥(まがどり)の如き忌むもの』講談社文庫、2012.10(2006→2009)

今日最も精力的に本格ミステリを書き続けている作家の一人である三津田信三が、2006年に発表した作品の文庫版である。いわゆる「刀城言耶(とうじょう・げんや)」もの長編ということになるが、講談社での長編文庫化が4番目となった本書、実は第1長編『厭魅(まじもの)の如き憑くもの』(2006)に続く第2長編であったもの。原書房のラインナップとの関係でこうなったようだが、一本一本がほぼ完全に独立し、特に時系列で混乱するシリーズではないので、安心してお読みいただきたい。
舞台は瀬戸内海に位置する兜離(とり)の浦沖合に浮かぶ鳥坏(とりつき)島という島。同島にある鵺敷(ぬえしき)神社にて「鳥人の儀」という祭儀が行なわれるということを聞き知った言耶は、これを参与観察すべく同地を訪れる。どこか不穏な空気が島内に充満する中、いよいよ祭儀が始まるが、儀式を執り行う巫女の朱音(あかね)が衆人環視の元で消失する。一体何が起きたのか?言耶らによる調査が開始されるが次第に事態は混乱を極めていき、…。というお話。
「第二章 兜離(とり)の浦の民俗史」に現われているようなディテイル構築、巻頭にある島の地図などにも良く出ていると思う本格志向、死が死を、謎が謎を呼ぶ展開等々、ミステリ作品が持つべき要素をフルスペックで備えた作品だと思う。既に幾つかの作品を読んだ後、ということもあり、他作品と比べて若干のとっつきやすさを感じたところもある。まずはここから、というのも選択肢としてはあり得ると思う。以上。(2012/12/08)

会田誠著『カリコリせんとや生まれけむ』幻冬舎文庫、2012.10(2010)

先ごろ森美術館で個展「天才でごめんなさい」を開いていた美術家・会田誠によるエッセイをまとめたもの。初出は幻冬舎のPR誌『星星峡』で、おおむね2007年から2009年まで。元々の連載タイトルは「濃かれ薄かれみんな生えてんだよなぁ......」、であった。連載は続いているのかどうか良く分からないのだが、取り敢えず続編ぽい『美しすぎる少女の乳房はなぜ大理石でできていないのか』は既に幻冬舎から単行本として刊行されている。ちなみにこれらのタイトルから、何となく作者の人となりが思い浮かぶであろう。
本書は、色々な筋からの批判は多いとはいえやはり現代美術の中で一定の位置を占めるに至っている会田誠の、自作について、あるいは創作するということについて、更にはこの世界のありようについて、まで、その考えの中心がどこにあるかを垣間見させてくれる内容となっている。会田誠の作品に良い意味でも悪い意味でも何でも良いのだが、兎に角少しでもでも関心を持ってしまった人にはぜひお読みいただきたい、と思う。作品や作家への理解が深まる、というよりは、もっと大きなことを考えさせてくれる、そんな刺激に満ちた書である。以上。(2012/12/09)

平山夢明著『DINER(ダイナー)』ポプラ文庫、2012.10(2009)

『メルキオールの惨劇』(2000)などで知られる平山夢明による大長編の文庫版である。元々はウェブマガジンである『ポプラビーチ』に掲載され、その後大幅な加筆修正を経て2009年に単行本化。第13回大藪春彦賞、第28回日本冒険小説協会大賞に輝いた傑作、となる。今回の文庫化においてもあちこちに手が入っていることが、著者によるあとがきから読み取れる。
携帯闇サイトのバイトにうっかり応募してしまったオオバカナコは、悲惨な拷問にあった挙句、プロの殺し屋が集う会員制ダイナー=キャンティーンでウェイトレスとして働く羽目になる。そこを訪れる客は、みな心に深いトラウマを抱えていた。料理の腕は確かだがどう考えても普通ではない店長ボンペロのもとで、果たしてカナコは生き延び、社会復帰できるのだろうか…、というお話。
平山夢明版「残虐行為博覧会」というような感じで、もう何でもありな世界。全編にみなぎる強烈な暴力性、そしてまたますます研ぎ澄まされた感のある緊迫感に満ちた文体が何とも素晴らしく、圧倒された次第。この作家の、恐らくは代表作となるであろうはずの傑作である。以上。(2012/12/12)

誉田哲也著『主よ、永遠の休息を』実業之日本文庫、2012.10(2010)

その作品『ストロベリーナイト』劇場版の公開が一月ほど先に迫った今や超の付く売れっ子作家・誉田哲也による、2010年発表の長編である。シリーズものではなく、登場人物は今のところ他の作品と重複していない。が、ひょっとすると続編はあり得る、とも思う。ちなみに本書は、解説によればデビュウ前に書き溜めていたものの一つを大幅に改稿して発表、という作品であるらしい。
物語は、この人の作品の幾つかがそうであるように、二人の視点を交互に並べるというやり方で語られる。一方の社会部記者・鶴田吉郎はもう一人の語り手・芳賀桐江が勤めるコンビニで強盗現場に出くわし、そこで偶然知り合った男から暴力団事務所の襲撃事件についての情報を得る。どうやらその事件の裏には、14年前に発生した女児誘拐殺人事件の実録映像配信というとんでもないネタがあるようなのだが…。スクープを狙い独自の取材を開始する鶴田は、事件の背後にある深い闇へと足を踏み入れていくことになるのだった。
「本書はフィクションであり…」と書かれていても、平成の頭に発生したあの事件を想起してしまうのは致し方のないところだろう。敢えてそこに挑んだ、ということになるのだろうけれど、この人の持つ、人間の心の闇、というようなものの描出力はやはりただ事ではなく、見事に暗澹とした気分に落とされたのだった。
そうそう、「桐江」というのは勿論Kyrieのことであり、意味としては「主よ」くらい。普通は「Kyrie eleison.」(主よ、憐れみ給え。)のように使われる。この本のタイトル「主よ、永遠の休息を」はラテン語だと「Requiem eternam (dona eis) ,Domine ,」、となり、要するに所謂「レクイエム」の冒頭部ということになる。こんなところにも割と露骨な形で現われているように、本書は、基本的にレクイエムとして構想されているのである。以上。(2012/12/17)

乾くるみ著『新装版 塔の断章』講談社文庫、2012.11(1999)

乾くるみによる、『Jの神話』、『匣の中』に続いて講談社ノベルスで刊行されていたものの、再度の文庫化。解説は無し。改訂がところどころ施されているとは思うのだが、そのような情報も無し。取り敢えず、若干手に入りにくかったものなので、ありがたい再版である。
物語は、男女が塔の上で争う謎めいた序章で幕を開ける。主人公・辰巳まるみが書いた小説『機械の森』をゲーム化する企画会議のため、企画チーム8名がソゴウ出版の社主一族・十河家の別荘に集まったその日の夜、惨劇は起こる。犯人は誰か。あるいはまたその動機は?チームのリーダである天童太郎と辰巳は真相究明を開始するが…。という物語。
上に書いたように、天童太郎が謎解き役として登場。タイトルも「塔=Tower」、ということから、本作はその後書かれていく「タロウ」シリーズの第1冊目であることになる。
アリバイ・トリックがメインなのだけれど、勿論それだけではない。タイトルに「断章」とあるように、記述は時系列を乱しつつ、過去へ、そして現在へ、というように行ったり来たりする。実験的とも言えるスタイルだけれど、果たしてそこにいかなる意味があるのか?作者が仕掛けた企みの数々を、やや注意深い読解でご堪能頂きたいと思う。以上。(2013/01/05)

伊坂幸太郎著『SOSの猿』中公文庫、2012.11(2009)

伊坂幸太郎による、2009年発表の長編文庫版である。元々は『読売新聞』夕刊に、2008年から連載されていたもの。単行本は中央公論新社から刊行。本作は、五十嵐大介との競作、という形をとっており、五十嵐によるコミック『SARU 上・下』(2010)とは対をなす作品、と考えて良い。
ひきこもり青年の「悪魔祓い」を頼まれた他人のSOSを見逃せない男・遠藤二郎と、一瞬にして300億円の損失を出した株誤発注事故の原因を調査する生真面目な男・五十嵐真。斉天大聖・孫悟空は二人の間を飛び回り、こう問いかける、「本当に悪いのは誰?」。二人の行く末や、いかに、というお話。
余り芳しいとは言えない評判をよそに、それでもなお伊坂幸太郎らしいビターなテイスト溢れるファンタジィというか、今日における社会のありようについての鋭い洞察を多々含む良著なのではないかと思う。
ちなみに、『SARU』の方を読めていないのだが、これはこれで、単独でも理解不能な部分は特にない作品であることは記しておきたいと思う。以上。(2013/01/10)

誉田哲也著『ハング』中公文庫、2012.09(2009)

最も旬な作家のひとりである誉田哲也による、2009年に刊行された警察小説の文庫化である。以下、概略と感想などを。
主人公・津原英太は警視庁捜査一課特捜一係=堀田班に所属する刑事。堀田班の再捜査により宝飾店オーナー殺人事件の容疑者・曽根が逮捕される。しかし、公判になると曽根は突如として犯行を否認。しかも自白の強要があった、と言い出す始末。
自白を強要した、と名指されたのは、津原の先輩である植草だった。植草は首を吊って自殺、その後も次々に関係者が死んでいき、ついには、津原が思いを寄せる植草の妹・遥にも何者かの魔の手が忍び寄る。津原の運命は、はたまた一連の事件の裏には一体何が隠されているのか、というお話。
基本的に他の作品と共通する登場人物は出てこないが、トーンはひたすら「この人」流。ここまでダークな方向に行ってしまうと、もう戻っては来られない、という感じ。
まあ、姫川ものや「ジウ」シリーズなども、基本的には現実離れしているという意味で、実のところぎりぎりダーク・ファンタジィになる一歩手前に位置しているわけで、この作品はそれをもう少しそちら側に倒したところで、更にぎりぎり踏みとどまっている、というような具合になるのだろう。好き嫌いは分かれるかも知れないが、誉田ファンならずとも、取りあえず押さえておくべき作品であると思う。以上。(2013/01/15)

道尾秀介著『光媒の花』集英社文庫、2012.10(2010)

直木賞作家となってはやくも2年ほどが経過した道尾秀介による、受賞直前に刊行した連作短編集の文庫化である。元々は『小説すばる』に連載されていたもので、発表時期は2007年から2009年までと、結構長期間にわたっている。非常に評価の高い作品であったようで、第23回山本周五郎賞を受賞。翌年の直木賞への助走、という感じの受賞だったことは記憶に新しい。
収録作品は計6作。認知症の母と暮らす印章店主が心に秘めた遠い夏の出来事を描く第1話から始まり、問題を抱える少女と優しき女性担任の交流を暖かい筆致で描く最終話で閉じられる。登場人物が微妙に重なり合い、相互に少しずつ関係しあう物語群をつなぐのは一匹の白い蝶。現われては消えていくはかない存在である人の営みを、傍らでそっと見守るかのような筆致で書き上げた作品群になっている。
『向日葵の咲かない夏』を彷彿とさせるような重苦しい物語あり、近年のややコミカルな路線をそのまま踏襲するような物語あり、という作品集で、ある意味この作家の集大成、とも言いうるのではないかと思う。個々の作品の完成度もさることながら、本書はやはり全体を通して評価されるべきものだろう。周到に練られた構成が実に見事な、この作家の一つの到達点だと思う。以上。(2013/02/05)

藤木稟著『バチカン奇跡調査官 天使と悪魔のゲーム』角川ホラー文庫、2012.12

藤木稟による「バチカン奇跡調査官」シリーズの第7巻である。今回はシリーズ初の短編集。角川書店のやっているキャラクタ電子小説誌『小説屋sari-sari』にごく最近掲載された4本が収録されている。
第1話「日だまりのある所」ではロベルトの辛くも悲しい少年時代が、第2話「天使と悪魔のゲーム」ではバチカン情報局に軟禁されているローレンと平賀の出会いが、第3話「サウロ、闇を祓う手」では平賀・ロベルトの上司であるサウロ大司教のエクソシストとしての過去が、第4話「ファンダンゴ」では平賀・ロベルトの宿敵ジュリアの秘密がほんの少し、描かれる。
本編では描かれていない主要登場人物の過去がまとめられていて、このシリーズの背景を理解する上では非常に役立つ作品集になっている。こうして読むと、本当に壮大なスケールを持つシリーズになってきているな、と実感する。次巻の刊行が待ち遠しい。以上。(2012/02/09)

古川日出男著『MUSIC』新潮文庫、2012.11(2010)

福島県出身の作家・古川日出男による、三島賞受賞作『LOVE』(2006→2010)の続編にあたる長編の文庫版である。解説は画家・奈良美智が担当している。
青山墓地で生まれた地上最強の野良猫・スタバを中心に、物語は綴られる。猫笛を操る少年・佑多。俊足の少女・美余。性同一性障害を持つ北川和身。猫アートの世界的権威JI。4人はスタバに引き寄せられるようにして、東京から京都へと移動する。そして、「戦争」が始まる…。
前作の登場人物に加えて新たなメンバが参入し、物語は更にエキサイティングなものに。疾走感あふれる文体、破天荒なキャラクタ造形とストーリィ展開。これはもう、古川日出男にしか書き得ない、強いて言えば「古川日出男」というジャンルの、と言っても良いのではないかと思う作品である。以上。(2013/02/10)

宮部みゆき著『英雄の書 上・下』新潮文庫、2012.7(2009)

ベテラン作家宮部みゆきによる、大胆な構想に基づいた、波乱万丈かつ非常に優れたファンタジー小説である。原本は2009年に毎日新聞社から刊行、2年後にカッパ・ノベルスに収録後、今度は新潮社で文庫化、ということになった。刊行履歴が紆余曲折なところが本の中身にも少し通じるのだがそれはさておいてと。
主人公の小学5年生・森崎友理子には中学生の兄・大樹(ひろき)がいた。ある日突然、大樹が同級生を殺傷し失踪。行方を案じる友理子は、兄の部屋で「ヒロキは『エルムの書』に触れたため『英雄』に憑かれてしまった。」という、「本」が発する不思議な声を聴く。「本」の導きによって異界へと赴いた友理子は、大樹を救い出すべく「無名の地」に向けて旅立つのだが、大冒険の末に待ち受けていたものは、というお話。
とまとめられるほど単純な物語ではなく、そこは手に取って頂くほかはない。豊富なアイディアとストーリー・テリングの見事さはいつものことだけれど、キチンと今日の社会が持つイジメであるとか民族差別であるとかそいうった問題を描きつつ、本作では特に物語とは何か、何ができるのか、というような物語作家である自分自身への問いかけとでも言うべきことが徹底的に行なわれていて、その辺りが本当に素晴らしいと思う。続編も書かれそうな、大傑作である。以上。(2013/02/16)