誉田哲也著『あなたが愛した記憶』集英社文庫、2015.11(2012)

誉田哲也による、2012年発表の長編文庫版である。元々は『集英社WEB文芸レンザブロー』に連載されていたもので、帯によると「驚愕の恋愛ホラーサスペンス!」となる。
探偵業を営む曽根崎栄治の前に、女子高生の民代が現われる。彼女は、自分が栄治の娘であると主張し、二人の人物を探して欲しいという。栄治が調査を進めるうちに、民代は、二人のどちらかが、昨今世間を騒がす残虐な連続監禁殺人事件の犯人だと告げる。彼女は一体何者か、そしてまた犯人とはどういう関係にあるのか…、というお話。
余り詳しくは書けないのだが、まさに誉田哲也の真骨頂というか、原点回帰というか。まだまだこの話は書き継がれていくんだな、是非ライフワークの一つにしてほしいな、などと思った次第。
そんなわけで、暗澹としたクライム・ノヴェルにして、キャッチコピーの通りの恋愛ホラーでもあるこの作品、単体でも面白いけれど、これを読んだら是非とも他の作品(若干入手難のものもあるかも知れない。)との関係性を探っていただきたいと思う。以上。(2015/12/05)

ピエール・ルメートル著 梯明美訳『悲しみのイレーヌ』文春文庫、2015.10(2006)

『その女アレックス』(2011→2014)で日本でも広く知られるようになったフランスの作家ピエール・ルメートル(Pierre Lemaitre)のデビュウ作。原題はTravail Soigné。Google翻訳だと「きちんとした仕事」と出る。まあ、確かにそうなのだが…。
二人の女性が異様な手口により惨殺される。カミーユ・ヴェルーヴェン警部とその部下たちの富豪刑事ルイ、吝嗇刑事アルマンらが捜査を開始すると、第2の事件が起こる。やがて、二つの事件の驚くべき共通点が判明する。カミーユらは果たして犯人を確保することが出来るのか、はたまた次の事件を未然に防ぐことが出来るのか、というお話。
『その女アレックス』を先に読んでしまった方が多いはずなので、結末の一部はある程度見えてはいる。ただ、それは決して本筋ではなく、本作品で語られることの大部分は次巻では言及されていない。なので、どちらから先に読んでもほとんど問題はない、と思う。
それにしても大胆なミステリというか、発想や作り込みがなんとも素晴らしいというか。ここではそれ以上は語るまい。フランスでの刊行からほぼ10年。ようやく認知された天才ミステリ作家による、まさしく衝撃にして鮮烈なるデビュウ作である。以上。(2015/12/15)

今野敏著『任侠書房』中公文庫、2015.11(2004→2007)

今野敏による、任侠ものエンターテインメント作品シリーズの新装改題版である。元々は『とせい』というタイトルで2004年に実業之日本社から刊行。その後2007年に中公文庫に入り、今回の改題となった。ちなみに、同シリーズには他に『任侠学園』、『任侠病院』があるが未読である。
日村誠司が代貸(だいがし)を務める阿岐本(あきもと)組は、任侠道をわきまえたヤクザである。組長が倒産寸前の出版社経営を引き受けることになり、日村は半ば呆れながら、組長ともに件(くだん)の梅之木書房に出向く。しかし、そこには癖のある編集者たちや、なぜか所轄のマル暴刑事などがいて、なかなか一筋縄ではいかず…、というお話。
警察小説でない今野敏を久々に読んだ気がするのだが、さすがにうまい、というか、大変楽しめた。浅田次郎あたりが書いてそうなテイストの作品だけれど、それでもやはり組織ものの書き手としては本邦イチかも知れないこの著者だからこそ、ここまで面白く出来るのかも知れない。映像化もあり、な1冊である。以上。(2015/12/20)

浦賀和宏著『彼女が灰になる日まで』幻冬舎文庫、2015.12

このところ文庫書き下ろしでの刊行が続いてきた浦賀和宏による、「桑原銀次郎」もの長編の第4弾である。今回も文庫書き下ろしでの登場。ヴォリュームはやや薄目で、300ページほどの作品に仕上がっている。帯のコピーは、「自殺は本当に連鎖するのか」。
ライタの桑原銀次郎が昏睡状態から目覚めると、目の前に謎の男が現われる。男は「この病院で目覚めた人は自殺する」と告げる。調査を開始した銀次郎は、既に4人の患者が自殺していることを知る。関係者の話を聞き回るうちに、次第に何らかの企みに絡めとられていく銀次郎。連続自殺はオカルトか、あるいは医療ミスか、それとも…、というお話。
前作『彼女の幸せを祈れない』読了時に、これから先どうなることやら、と思ったがこうなったか、という感じ。というのも、「昏睡」はある意味この人の得意技なので。この作者にしては割とストレートなハードボイルドだと思うこのシリーズ、いよいよ本領発揮、なのかどうかは読んでのお楽しみである。対決は、まだまだ続く?以上。(2015/12/25)

筒井康隆著『聖痕』新潮文庫、2015.12(2013)

巨匠・筒井康隆による長編文庫版である。元々は『朝日新聞』に連載されていたもので、総ページ数330ほど。解説は東浩紀が担当している。
1973年、5歳の葉月貴夫は、そのあまりの美貌故に暴漢により性器を切り取られた。そのために性欲からの支配を受けることなく成長する彼は、いつしか美食への追求にその人生を捧げることとなる。やがて理想のレストランを開業した貴夫だったが、その店は背徳の館へと化していき…、というお話。
古語や今日では滅多に使われない言葉・表現を駆使した文体と、食べたことはもちろん、聴いたことも見たこともないような食べ物の数々についての膨大な記述が何とも凄いのだが、基本的にはバブル期からバブル崩壊後の日本を鋭い切り口で描いた文明批評的な作品、ということになるだろう。
巨匠が、これまでに培ってきたものを更に進化、あるいは深化させて築き上げた、何とも贅沢な作品である。以上。(2016/01/04)

城平京著『虚構推理』講談社文庫、2015.12(2011)

第8回鮎川哲也賞最終候補作『名探偵に薔薇を』でデビュウ以降、基本的には漫画原作者として活動してきた奈良県生まれの作家・城平京(しろだいら・きょう)が、2011年に発表し、第12回本格ミステリ大賞を受賞した作品。元々のタイトルは『虚構推理 鋼人七瀬』だったが、今回前半だけになった。ちなみに、片瀬茶柴作画によるコミック版も刊行中である。
ある事情により別れることになった彼氏のことを引きずっている女性警官・弓原紗季は、ある夜、噂に名高いアイドル亡霊・鋼人七瀬と出遭ってしまう。紗季を助けたのは、その場に居合わせた小柄な少女・岩永琴子だった。
琴子は、様々な怪異たちのトラブルを仲裁・解決する巫女(みこ)であり、更には紗季の別れた彼氏・桜川九郎の現在の彼女であると言う。やがて琴子は、紗季や九郎とともに、鋼人七瀬を消去すべく、虚構の推理を展開し始めるのだが…、というお話。
素晴らしいとしか言いようのない作品。オリジナルは『雨月物語』なのだけれど、膨らませ方がとんでもないというか、なんというか。数多の作品が書かれてきたミステリ・伝奇小説の領域で、まだこんなものが書けるのか、と、驚きを禁じ得なかった。寡作過ぎる作家による、大変な傑作である。以上。(2016/01/10)

長岡弘樹著『教場』小学館文庫、2015.12(2013)

山形県生まれの作家・長岡弘樹が執筆した連作短編集の文庫版である。単行本は2013年に刊行。ちなみに、各々の短編は元々『STORY BOX』(小学館)に2009年から2011年にかけて掲載されていたもの。色々なランキングで上位を占めた作品で、例えば『週刊文春』の2013年版「ミステリーベスト10」では堂々1位を獲得している。ちなみに、続編『教場2』が間もなく刊行の模様。
各エピソードはそれぞれ「職質」「牢問」「蟻穴」「調達」「異物」「背水」と題されている。主役となるのは警察学校初任科第98期短期過程に、様々な来歴と目的を持って入校した生徒たち。彼らの前には、にらまれれば即退校と言われる冷徹な教官・風間公親が立ちはだかる。警官を目指す彼らは、果たして学校生活をまっとうし、無事警官となれるのか、というお話。
と、書いてみたものの、実はかなり違う。そのあたり、実際にお読みになって確かめて欲しいのだが、言ってしまえば一筋縄ではいかない構成というか、それ自体がアイディアなので知らないで読み始めた方が良いだろう。ここでは、この極めて優れた小説を、警察学校を舞台に繰り広げられる、途方もない密度と圧倒的なひねり具合を持った群像劇、と要約しておくにとどめたい。以上。(2016/01/13)

村上春樹著『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』文春文庫、2015.12(2013)

近いうちにノーベル賞をとることになるのかも知れない村上春樹による、2013年発表の長編文庫版である。
鉄道駅を設計する仕事をしている多崎つくるは、高校生のころ、四人の親友達と完璧な調和をもった関係を結んでいたが、大学生になり、突然、彼らから絶縁を申し渡される。一体何故?つくるには見当もつかなかった。
それから16年、漂うかのように生きてきたつくるは、新しく出来た年上の恋人・沙羅に促され、何が起きたのかを探り始めるが…、というお話。
「色彩を持たない」、というのは名前に色が入っていないから。そんな、いつものようにどこか記号的でもあり、いつものようにへんてこりんでもある設定を持つこの作品は、言ってみればかなりポール・オースター風。恐らくは、その辺りがアメリカで受けた理由なのだろう。
もう一つタイトルにある「巡礼の年」、というのは周知のようにあのF.リストのピアノ曲。『1Q84』でも東欧出身の作曲家を引っ張り出してきたけれど、これはシリーズ化するのかも知れない。
そんな風に、タイトルで多くを説明してくれている本作は、大作、というわけでもなく、小編というわけでもない長さを持ち、そんな中でこの作家らしい、ある種の諦念と喪失感、そしてまたほんの少しだけの暖かさを持った、かなりミステリ趣向の強い作品になっている、とまとめておきたい。以上。(2016/01/20)

芦辺拓著『奇譚を売る店』光文社文庫、2015.12(2013)

安定して良質な作品を世に送り出し続けている作家・芦辺拓による2013年刊の怪異談連作の文庫版である。元々は『小説宝石』に掲載された6本からなる。カヴァの装画はひらいたかこが、解説は小池啓介がそれぞれ担当している。
「―また買ってしまった。」。古本屋に入っては、何とはなしに古い書物を手にしてしまう「私」。様々な形を持つ本たちとの出会いは、私をして現実とも虚構ともつかない場所にいざなうことになる。そんな、私と古書たちが織りなす、六つの奇妙な物語。
名手ならではの作品というか、手を変え品を変え、時にユーモラスで、時にはおぞましくさえある、まさしく目くるめく、という具合に絢爛たるヴィジョンが展開されるさまは誠に見事なものである。当代においては三津田信三とならぶ怪奇小説の書き手による、古典へのオマージュに溢れた愛すべき作品集である。以上。(2016/01/22)

平野啓一郎著『空白を満たしなさい 上・下』講談社文庫、2015.11(2012)

芥川賞作家・平野啓一郎による、『モーニング』連載の長編小説文庫版である。単行本は1冊だったが今回は上下に分冊。表紙もブランクにタイトルからV.v.ゴッホの絵(怪我後→怪我前)に変更されている。
世界各地で、死者たちがよみがえる現象のニュースが報じられていた。そんな中、36歳の土屋徹生は、ある夜、勤務先の会議室で目覚める。帰宅した彼は、妻から自分が3年前に自殺した、ということを告げられる。
一体なぜ?自殺の原因に思い当たるところのない徹生は、自分が実は殺されたのではないか、と疑い始めるのだが…、というお話。
『決壊』(2008)、『ドーン』(2009)、『かたちだけの愛』(2010)に続く「分人主義」小説第4弾となる。基本的にミステリの体裁をとる本書は、4編の中でも、とりわけエンターテインメント志向が強い作品であるように思う。生きる、ということの意味を深く、そしてまた優しく掘り下げた、傑作である。以上。(2016/01/25)

平山夢明著『暗くて静かでロックな娘(チャンネー)』集英社文庫、2015.12(2012)

『DINER(ダイナー)』(2009)や『独白するユニバーサル横メルカトル』(2006)などで知られる作家・平山夢明による、『小説すばる』に掲載された10作品を集めた短編集である。
盲目の美女ロザリンドと、何のとりえもない俺とのロマンスを描く表題作の他、「日本人じゃねえなら」、「サブとタミエ」、「兄弟船」、「悪口漫才」、「ドブロク焼場」、「反吐が出るよなお前だけれど」、「人形の家」、「チョ松と散歩」、「おばけの子」を収録。この世の底辺を行き交う人々の、悲喜こもごも、が描かれている。
舞城王太郎や乙一らと並んで、文学的でもあり、アンチ文学的でもある何とも独特な作風を持つこの作家だけれど、やはりその破壊力というか、煽情性というか、そういった点においては当代随一とも言えるだろう。今日の世界を活写する、毒とアイロニィに満ちた、まことに優れた作品集である。以上。(2016/02/03)

森博嗣著『魔法の色を知っているか? What Color is the Magic?』講談社タイガ、2016.01

森博嗣による、Wシリーズの第2弾となる長編。第1弾に続き、講談社タイガにて文庫書き下ろしでの刊行となる。表紙のイラストは第1弾に引き続き引地渉が担当。帯のコピーは「ウォーカロンと人間。命の価値に違いはあるのか?」。冒頭や各章頭の引用は、サイバー・パンクの古典である、ウィリアム・ギブスンの『ニューロマンサー』による。
チベットのナクチュ。それは、外界から隔離された特別居住区である。研究者・ハギリは、「人工生体技術に関するシンポジウム」に出席するため、身辺警備のために派遣された局員のウグイとアネバネ2名と共にチベットを訪れる。
ハギリは、その地においては今もなお人間の子供が生まれていることを知る。生殖による人口増加がほぼ無くなった世界で、一体何故子供が生まれるというのか、そこには何が?、というお話。
子供が生まれなくなった世界、というヴィジョンはSFにおいては割と古くからあるのだけれど(B.W.オールディス『グレイベアド』、P.D.ジェイムズ『人類の子供たち』など。どちらも英国人)、本作品では、そこにはどうやらあの博士が関わってくるらしい。
その辺りも非常に面白いのだが、ウォーカロン派、アンチ・ウォーカロン派の対立やら何やら、かなり政治がらみなネタを盛り込んだ、割とハリウッド映画風の味わいのある作品で、大変楽しめた次第。次巻にも大いに期待したい。以上。(2016/02/03)

奥泉光著『虫樹(ちゅうじゅ)音楽集』集英社文庫、2015.11(2012)

奥泉光による、2012年に単行本としてまとめられた全9作からなる連作短編集。初出は2006年から2012年にかけての『すばる』誌。解説は円堂都司昭が行なっている。
話は「私」の学生時代、35年以上前にさかのぼる。サックス・プレーヤである通称「イモナベ」は『孵化』と『幼虫』という二つのライブを全裸で演奏して以降、精神に変調を来したとの噂とともにジャズシーンから消えてしまったはずだった。
しかし、1990年になり、小説家となった「私」は『変態』と題されたライヴのチラシを見つける。足を運んだ私が見たのは、ありえない光景だった…、というお話。
基本コンセプトとして、F.カフカの『変身』とジャズを掛け合わせてハイブリッド種を生み出そうとした作品である。奥泉には既に『鳥類学者のファンタジア』(2001)というジャズ小説が存在するが、他にもシューマンをモティーフに据えた作品を書くなど、音楽への造詣がかなり深いことは周知の通り。
本作は、そんな奥泉による、初期の作品が持っていた純文学志向を改めて掘り起こし発展させた、変幻自在にして融通無碍な、圧倒的なインパクトを持つ雄編、である、と述べておきたい。以上。(2016/02/08)

城平京著『雨の日も神様と相撲を』講談社タイガ、2016.01

1998年に出た『名探偵に薔薇を』以降基本的には漫画原作者として活動してきた城平京(しろだいら・きょう)が、上で紹介した2011年発表の本格ミステリ大賞受賞作『虚構推理』によって小説家として復活し、その後新たに書き下ろした長編である。
中学3年生の逢沢文季(あいざわ・ふみき)は、幼いころから両親のもとで相撲漬けの生活を送ってきたが、両親との死別後、叔父の刑事・浅沼悟に引き取られ、ド田舎である久々留木(くくるぎ)村へと転校することになる。
転校からほどなく、村を仕切ってきた一族の娘・遠泉真夏(とおいずみ・まなつ)によって喋るカエルたちに引き合わされた文季は、その相撲の知識を見込まれ、コーチを頼まれる。折しも、隣の村で変死体が発見され、浅沼ら県警による捜査が進行していた。二つの出来事はやがて意外な形でつながり始めるが…、というお話。
今年のベストは早くも決定した、というか、ここ10年位読んできたものの中で一番面白かったようにさえ思う。ミステリにして相撲小説、そしてまた青春小説でもある本書、余りの作り込みように、それこそ途方もない時間をかけてアイディアを温めてきたのでは、などと想像してしまう。本を読むことの楽しさを思い出させてくれた、紛れもない傑作である。以上。(2016/02/13)

有栖川有栖著『菩提樹荘の殺人』文春文庫、2016.01(2013)

NTVにて、斉藤工、窪田正孝主演でドラマ化がされている、有栖川有栖による「臨床犯罪学者・火村英生」もの作品集の文庫化である。全4篇。初出は『オールスイリ』等、となっている。
「アポロンのナイフ」では連続通り魔事件の容疑者とされる〈アポロン〉という異名も付いた美しい少年の逃亡中に起きた新たな事件を、「雛人形を笑え」では人気上昇中の漫才コンビ〈雛人形〉の一人「メビナ」殺害を巡る騒動を、「探偵、青の時代」では若き日の火村が披露する推理を、表題作「菩提樹荘の殺人」ではアンチエイジングのカリスマがトランクスのみの死体で発見されるという事件の顛末を描く。
概ね「若さ」をテーマとした4作品が集められているのだけれど、その扱い方は作品によって多種多様。本格ミステリ、というスタイルを基調としながら、この作者としてはいつも以上に社会性を盛り込んでいる、ように感じられた。いずれにしても、クオリティの高い、そしてまた大変密度の濃い作品集である。以上。(2016/02/15)

島田雅彦著『ニッチを探して』新潮文庫、2016.01(2013)

東京生まれの作家・島田雅彦による、2013年発表の長編である。元本も新潮社刊。帯に、「興奮のサスペンス巨編!」と書かれていて、ちょっと違和感を覚えたのだが、かれこれ400ページを超えていて、まあ確かに巨編ではあるなと思う。
大手銀行に勤める藤原道長は、背任の疑いをかけられ失踪。所持金ほぼゼロのためその逃亡先はネットカフェ、バックパッカー宿、カプセルホテル、山手線の車両、公園…、と次第にランクダウン。そんな中、銀行の幹部たちは自分たちの巨額横領の発覚を恐れて藤原の行方を追い、ついには刺客を投入する。果たして藤原はこの危機を乗り越えられるのか…、というお話。
物語としては上のような感じなのだが、この著作の本質は、そこにあるのではなく、基本的にエリートである藤原が体験する東京のニッチ空間の描写にある。島田さん、あちこちを相当丹念に歩き回ったり話を聞いたりしたのではないか、と邪推する。お金をほとんど持たずに、本を片手に歩いてみたくなる、そんな一冊である。以上。(2016/02/20)

道尾秀介著『笑うハーレキン』中公文庫、2016.01(2013)

兵庫県生まれの作家・道尾秀介による、読売新聞夕刊に連載され、2013年に中央公論新社から単行本が出ていた長編の文庫化である。帯によると、「全てを喪った男の、絶望と前進の物語」、である。解説は、小泉今日子。2013年2月17日に読売新聞に掲載されたものがそのまま引用されている。
主人公の東口太一はホームレス。全てを失い、川辺の空き地に住みながら家具の修繕でかろうじて身を立てる身の上の彼は、疫病神に付きまとわれていた。そんなある日、謎の女・西木奈々恵が突然弟子入りさせてくれ、といって彼の元へと転がり込む。やがて仲間のホームレスが遺体で発見され、どうも怪しげな家具修理の依頼が舞い込んでくる。奈々恵の正体は、そしてまた東口は疫病神や数々の災難から逃れることができるのか、というお話。
伏線の張り方、「メビウス」等々の様々なアイテムの巧みな利用など、いかにも道尾秀介らしいたたずまいを持った作品で、実に楽しませてくれる。直木賞受賞後の、著者の更なる充実ぶりを示す、好編である。以上。(2016/02/25)