瀬名秀明著『デカルトの密室』新潮社、2005.08

瀬名秀明による5年振りに刊行された長編第4作。人工知能なり人間の知能なりを巡る物語で、大変な情報量を含む大作である。大体の概略を示すと、下半身が不自由なロボット工学者・尾形祐輔とその恋人のような存在であるのだろう人工知能研究者・一ノ瀬玲奈、及び彼等が共同開発した人間型ロボット・ケンイチのトリオが、祐輔とは深い因縁のあるらしいフランシーヌ・オハラ(アイルランド系と思いきや、「小原」さんでした…)なる天才科学者とその共同研究者にして彼女とは親密な関係のあった真鍋浩也等が目論む壮大な計画に巻き込まれ、なかなかにひどい目にあう、というお話。
その壮大な計画、というのがこの小説の骨格なのであって、それは要するに脳という「デカルトの密室」に閉じ込められた知能や人格といったものを、インターネットを通じて結び付いた各コンピュータ内で動作するプログラム群間の、自己増殖的で非線形的なネットワーク構築によって知能や人格に似た何かを実現することで解放しよう、というような途方もないもの。実は、その大きさになってしまうと光の速度という限界が効いてきてしまうので、これは困難じゃないかとも思うのだけれど(要するに、何かを考えるのにえらく時間がかかってしまうわけで…)、アイディアとしてはとても面白い、と思う。
さてさて、「チューリング・テスト」、「フレーム問題」といった人工知能研究ではお馴染みの事柄に加え、映画版『2001年宇宙の旅』におけるチェス・ゲームの「間違い」、だの、J.R.サールの「中国人の部屋」、「ウェイソン・テスト」などなどといった私の知らなかったことを物語の随所に組み込んだ誠に啓発的な内容に満ちた本であることは間違いない。とは言っても、ここまで大風呂敷を広げておきながらK.ゲーデルの「不完全性定理」に言及しなかったことについては「さすがにまずいだろう」、という個人的感想も一応ここに記しておくけれど、それは措くとしても全体としてとても読みにくい本で、要するにその叙述法がやや不親切な感じがしたのも事実なのである。
読みにくさの原因には、扱われている内容の難しさ、ということも勿論あるのだけれど、その前に、物語の記述者というか語り手が各節毎に切り替わってしかもその判別がつきにくいこと、事件の技術的な面の解説者として登場しているように思える翔太郎の露出度が少なすぎること、チェスという馴染みの浅いゲームがとても大事な役割を果たしているのに最後までその真意がつかめないような叙述になっていることなどなど、といったことが起因しているように思う。
ところで、タイトルに「密室」とあるから「密室殺人」をメイン・プロットとする本格ミステリを期待する読者も多々いることとは思うのだが、そうだとすると全くの見当はずれである。まあ、この本は確かにもっと大きな「密室」を扱っているのだからそれはそれで良いとしても、取り敢えずここで言っておきたいのは、先に触れた「読みにくさ」とも相俟って、要するに本書が何を目指したのかが良く分からない、ということになるだろうか。知能や意識といったものについての考察を巡らせる殆どドキュメンタリに近い思弁小説のようでもあり、若干のケレン味を含む一応サイバー・パンクのテイストをもったエンターテインメント作品のようでもあり、といったように何とも中途半端なところが問題だと考える。
本書が言及していないP.K.Dickの『電気羊…』(ハヤカワ文庫で買えるはず。)でも、「謝辞」で言及された実のところ本書の元ネタである士郎正宗の『攻殻機動隊』(講談社から出ているはず。)やその延長線上にある誠に素晴らしいTVシリーズでも、同じく元ネタの一つである森博嗣の『すべてがFになる』(講談社文庫)から始まる一連の「真賀田四季」ものにおいても、この本と同じようなテーマは追求されており、更にはそれらの作品において作者達はそういうテーマを実にうまく料理し、見事な形でエンターテインメント作品として成立させてしまっているところがあるのであり、そういうことを思い起こすにつけ、「もうちょっと何とかならなかったのか…」という感慨に耽る他はなかったのである。以上。(2005/12/09)