青山真治監督作品 『エリ・エリ・レマ・サバクタニ』
青山真治監督による第58回カンヌ国際映画祭ある視点部門出品作。まさに「ある視点」から描かれている作品で、間違いなく一つの世界を見事に創り出して得ている。聴き慣れない言葉かも知れないがこの映画のタイトルは『マタイによる福音書』の一節で、映画の中では筒井康隆によって引用される「神よ、なぜ我を見捨てたもうや」というイエス・キリストによる最後の言葉に対応する。『ヨハネによる福音書』ではこの部分が「事は成された」となっていてより予定調和的なのだが、この映画のタイトルやその中身からは、予定調和性のようなものをほんの少しはぐらかす、あるいは部分的に否定する、という意図がうかがえたりもする。
ごく簡単な物語なのでごく簡単に要約を。時は西暦2015年、謎の病気である、人をして自殺したい気分にさせる「レミング病」が蔓延する中、その作り出す音がその病気からの解放を促すらしい都会を離れて暮らすノイズ・ミュージック・ユニット(浅野忠信・中原昌也。以下、役名は面倒なので極力示さない。)のもとに、同病に冒された若い女性(宮崎あおい)がやってくる、というもの。この物語構造といい、舞台設定はどう考えても浦沢直樹の『20世紀少年』(小学館。間も無く完結かと。)を意識しているように思うのだが、その目指すものはかなり違う。映画自体が持つ雰囲気は未だに正確な発音が良く分からない Leos Carax という人が作った映画群にも近いものがある、ということも付け加えておこう。
基本的には「音による癒しは可能か」、というテーマを追求した作品で、音楽よりは雑音に近いサウンドこそが人類を救い得る、というこの映画で示されるコンセプトは、所謂凡庸極まりないヒーリング・ミュージックみたいなものに対する痛烈なカウンタにもなっているところが面白い。ついでに言うと、当の救い手である二人はあたかもイエス・キリストのように周りを右往左往する人々に相反して「人類の救済」みたいなものには無関心で、昔「暴力温泉芸者」をやっていた(今もやっている?)小説家・中原昌也演じる「アスハラ」という意味深な名前を持つ人物も結局自殺、何とか意図的に救い得たのが宮崎あおい演じる女性・ハナだけ、というところが実に奥が深い。この映画で表現されているのは、要するに非予定調和性、偶然性の効用とでも言うべきものなのである。
さてさて、上述した所謂ヒーリング・ミュージックみたいなものを聴いたことのない人はCDショップなどで視聴させてもらえば良いと思うのだが、それらの陳腐さは吐き気を催すものでさえある。医学的に認められた効果があるのかも知れないし(そんなのは別に偉くもなんともないんだが)、そういうもので癒される人もいるのかも知れないけれど、この映画を見る限り、青山的には「そんなもので癒されるくらいなら死んだ方がマシ」ということなのだと思う。それは実に正しい。
ところで、上の記述でわざわざ「ノイズ・ミュージック」としているのだけれど、この映画で使われている音源というのも実のところやはり「ミュージック=音楽」の範疇(はんちゅう)に入るのだと思う。ノイズ・パフォーマンスというのは、旋律、調性、和声、拍節みたいなものを基本的には逸脱・否定するところに意義があるのだと考えているのだが、かと言って、より純粋なノイズ=雑音というのは工学的に言うと情報量が限りなく0に近いわけで、それだと作品あるいは商品になり得ない。例えばTVの砂嵐画面から出る音(この表現は変だけれど、まあ分かりますね。)には意味は無い。それが観衆に対して提供されうる音源=作品となるためにはどこかしらそのパフォーマにしか作り出せない雰囲気とかアフォーダンス理論で言う「音の肌理(きめ)」みたいなものが備わっていないといけないわけだ。
でもって、明瞭な拍節や旋律等々を持つ音源を純粋な音楽とするならば、この映画で用いられる音源というのはかなり純粋な雑音に近いもので、そういうものが、あるいはそういうものによってのみ人類は救済され得る、でもそれを創り出している当の本人はどうでも良いと思っている、というこの映画の基本図式は、まさに予定調和性のはぐらかし、あるいは部分的否定以外の何物でもないと言えるだろう。付け加えると、そういうものの全面的な否定ではないところも実は重要で、その辺のところはこの映画に使われている音源が音楽と呼び得るようなノイズであったり、あるいはより純粋な音楽だったりするところや、救済や癒しといったもの自体の存在意義については、確かに留保付きではありながら認めているように見えるプロット構成に現われている。
最後に蛇足を。浅野・宮崎・岡田茉莉子による死んだアスハラの「墓」参りの場面というのは、つい先日物故された、偉大なヴィデオ・アーティストにして、ノイズ・ミュージックのようなものを作品として成立させ提示したジョン・ケージ( John Cage )などとも一緒に音楽活動をしていたこともあるナム・ジュン・パイクへのオマージュで、ちょうど時期が重なったこともあり軽い衝撃を受けた次第。こういう偶然の繋がり(音楽やパフォーミング・アートの世界には「チャンス・オペレイション」という用語もある。)、というのも反予定調和的な作品内容と相俟って誠に興味深いものがあるのである。以上。(2006/02/02)