京極夏彦著『数えずの井戸』中央公論新社、2010.01

昨年の頭に出ていた京極夏彦による書き下ろし長編。『嗤う伊右衛門』、『覗き小平次』に続く、江戸期に人口に膾炙した怪談を独自の視点で書き直す試みで、ここで扱われているのは当然「番町皿屋敷」、ということになる。「播州皿屋敷」というのもあって、これも関連文献に挙げられているが、冒頭から物語の舞台は「番町」であることが示されていることには一応注意を払っておきたい。
播磨守・青山家の通称皿屋敷にて、美しい腰元が夜な夜な井戸の穴より現われ、皿を数えるのだという噂が立つ。10枚のはずが、どうやら1枚足りぬらしい。いくら数えても、足りない、どう数えても、足りない。その悔しさに腰元はやがて身を燃やし消える、という。
そんな化け物話と、少し前に同じ屋敷で起きたとされる事件との関わりが取りざたされる。それは、青山家の世継ぎたる青山播磨、その朋輩の遠山主膳、そしてまた化けて出ているという腰元の菊、播磨に嫁ぐことになっていた娘・大久保吉羅、菊の幼なじみである三平らが、一時に死ぬこととなった刃傷沙汰。そこでは果たして何が起きたのか、事件の真相やいかに、というお話。
20章からなる物語は(2章単位で一組なので10章構成とも見ることが出来る。)、各章が各々、決して少なくはない登場人物一人一人の視点で語られていくことになる。この辺り、非常に複雑、ではあるのだが、時系列に沿って並べられているので、リーダビリティは確保されている。それぞれの登場人物が持つどことはなしの欠落感が本書のキーになっていて、それが最終的なカタストロフへと全てを巻き込んでいく力場を形成することとなる。
やはり、この作家の持つ構想力、構成力、そしてまたキャラクタ造形力というものは尋常なものではなく、恐ろしく個性的でいて、かつまた時代を超えていく普遍性をも兼ね備えた小説になっていると思う。このシリーズは上述のようにこれで3作目。持ち芸の一つとして、この先も作品を付け加えていって頂きたいものである。以上。(2011/07/28)