島田雅彦著『カオスの娘 シャーマン探偵ナルコ』集英社、2007.06

『すばる』に連載されていたものに大幅な加筆その他を施して出版されたということになるらしい島田雅彦の長編最新作。アイヌのシャマン(原文では「シャーマン」だがこだわりがあるので、以下、敢えて「シャマン」と表記する。)を祖母に持つナルコレプシー(辞書引いて下さい。)の少年ナルヒコの修行とプロフェッショナル化への道のりを横糸に、「魔王子」なる男に誘拐・監禁・飼育され、逃げ出したのもつかの間、更に悲惨な運命を辿り、募らせたルサンチマンからなのか何からなのかやがて世界を破滅に導こうと動き出す美少女=M子の周辺に出来する様々な出来事を縦糸として、何とも島田雅彦らしい数奇なドラマが展開する。
個人的には島田雅彦の最高傑作だと考えている『夢使い』のようなところもあり、村上龍のこれまた素晴らしい小説である『イビサ』のようなところもある作品で、そしてまた、その両者を決して超えてはいないのだけれどそこそこ読ませる作品に仕上がっていると思う。ただ、個人的にはかなり重大なものと考える難点を一つだけ挙げておくと、この作品に於けるシャマニズムについての記述は、いかにも「勉強しました」という感じのもので、どうにも型に填りすぎているし、それはM子の周辺に現われる「家出少女」達に関する記述についても言えることなのである。上に挙げた2冊は、恐らく膨大な量の勉強はしているのだろうけれどその跡を殆ど感じさせないまでにそれらを自分の血や肉にしてテクストを紡いでいるがために、あたかも作家の創造力や想像力にまかせて書かれているように見える点が素晴らしいのであり、私は基本的に文学というのはそうしたものなのではないか、と思うわけだ。
そう考えると、シャマニズムをテーマとした小説というものが、いかに困難なものであるか、ということにまで思考が及ぶ。1990年代に田口ランディや篠田節子といった作家がシャマニズムを俎上に載せた大変優れた作品を書いているとは言え、それらもまた民俗学や人類学から学んだ知識を並べているようなところが強くて、それはそれで文学としての一つの在り方なのだろうけれどどうも本質から離れてしまっているような所を感じたりもしていたのである。そうそう、そもそもシャマンというものが基本的に「物を語る存在」である以上、同じく「物を語る存在」である作家がシャマニズムについて語るためには、ある種シャマンを凌駕するようなテクスト構築能力を発現させなければならないわけで、それは勉強で身に付く物とは到底思えないのであるし、事実身に付いた人など見たことがないのである。
まあ、これはあくまでも導入部的な作品なので、「シャーマン探偵ナルコ」シリーズの今後には大いに期待したいと思う。ナルヒコのような千里眼的能力を持つ探偵というのはミステリとしては基本的に反則なので、そこをどう処理していくのかが見物である。
蛇足になるけれど、18頁にあるナルヒコの祖母が喋る台詞中に「シャーマン」という語が使われていて、かなり一般化が進んだ少なくともアイヌ語ではないこの言葉が、ここに登場するのはやや不自然ではないかと考えた次第。アイヌ語でシャマニズム=巫術は「トゥス」でシャマン=巫者は「トゥスクル」。別にトゥスクルなんていう言葉も今では適度に一般化してしまっているのだから(TVアニメ化された某ゲームなどを見れば分かる通りである。)、こちらを使うべきだったのではないかと思うのである。以上。(2007/10/04)