島田荘司著『摩天楼の怪人』東京創元社、2005.10
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舞台は1969年のニュー・ヨーク。この時期にはコロンビア大学で助教授をしている、という設定のご存じ御手洗潔(みたらい・きよし)が、50余年にわたってマンハッタン島で繰り広げられた謎に迫る、というお話。
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その謎というのは、往年の名舞台女優がその死の間際に御手洗に投げかけた、彼女が住むビルであるセントラルパークタワー(架空の建物らしい。千葉県内にも同名の22階建てマンションがありますが…。)で起きた、自分の守護者であるという謎の人物=ファントムが手を下したらしい幾つかの殺人事件と、自分自身で行なった、という劇団長射殺事件の真相。当然ガストン・ルルー( Gaston Leroux )が書いた、後に舞台化され現在も上演が続くあの作品が元ネタになっているのだが、別に作品名を出すまでもないだろう。ちなみにあの作品が1910年に書かれたもの、ということもとても重要である。
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さてさて、話を戻すと、本書終盤では上記の謎に対して、いかにも島田荘司らしく途轍もなく壮大な、そしてまた一応は合理的だけれど現実にやろうとする人はいないだろうし、本当にできるかどうかイマイチ微妙な、というような解決がもたらされることになる。
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こういう書き方をしてもそれは決してけなしているのではなくて、前々から述べているようにこういうことを考えつくこの作家の想像力というものは実に素晴らしいもので、更に言えばこういう大がかりなトリックこそがこの人の真骨頂なのでもあるわけで、本作はそれを十分に堪能できる作品となっている、と思う。
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そういう、島田荘司らしい外連(けれん)もさることながら、この作品の凄みはタイトルに含まれる「摩天楼」についての膨大な蘊蓄(うんちく)だろう。この作品にも影を落としている「911テロ」以降この作家はどうやらNYの摩天楼に関する資料を漁りまくったようで、本書にはこれについての「目から鱗」な記述が多々存在し、実に勉強になった次第である。それは、一種の「摩天楼の文明史」、ないしは「摩天楼の文明論」とも言いうるものでさえある。
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このようなわけで、本作は本格ミステリに文明批評・文明論をかなりあからさまな形で挿入してきたこの作家の、新たな到達点を示す傑作である、と述べて寸評を終わることにしよう。
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と思ったけれど、やや蛇足。作中で殺されることになる「フレデリック・ジーグフリード」の名字は、英語読みされている筈なので「シーグフリード」の方が自然ではないかと思う。もしドイツ語読みされているとすれば「ジークフリート」が正しくて、そうだとすると「ジーグフリード」という表記やこれまた作中に出てくる“Geekfleed”(これなどは「ギークフリード」としか読み得ない。ちなみに、“geek”という単語の意味は面白い。)という表記はやや不自然である。また、580頁にある誤植=「書かさずに」はかなり目立ちます。以上。(2006/07/03)