周防正行監督作品 『それでもボクはやってない』
周知の通り、『Shall we ダンス?』以来実に10年以上のブランクを経て公開され、そして空前のヒットとなっている、あの周防正行監督の新作長編劇場用映画である。今更なのだけれどこの大変優れた映画監督は、これまた国際的に高い評価を得ている黒沢清と大学時代に同じ映画サークルにいた、という話をついさっきWikipediaから仕入れたのだが、まあ、それはそれとして、と。
さてさて、本作品は加瀬亮が演じる主人公が、首都圏内の私鉄駅構内において、彼が乗っていた電車内で他の誰かが行なった痴漢行為の被害者=女子中学生により、その事実誤認からその場で現行犯逮捕され(やや形容重複あり)、警察から厳しい取り調べを受け、当番弁護士に示談を仄めかされたものの本当にやっていないことから犯行を否認し、その後も頑(かたく)なに否認し続け、やがて刑事裁判となり…、というプロセスを描いたものである。
弁護士役に役所広司と瀬戸朝香、検察官役に尾美としのり、友人役に山本耕司、母親役にもたいまさこ、主人公と同じく痴漢冤罪で係争中の男役に光石研といった面々を配し、あるいはこの人の映画ではおなじみの竹中直人や田口浩正、更には「あの人」(内緒)などもさりげなく出演している。登場人物はやたらと多いにもかかわらず、誰一人として無駄になっていないし、描き分けがキチンとしているので分かりにくかったり混乱したりするところが全くない、といった辺りが、この監督の力量を端的に表わしていると考えた次第である。
そういう辺りも凄いのだが、何と言ってももの凄いのは、この映画がほとんど台詞回しだけで成立していること、更に言えば、これだけ淡々とした対話劇、法廷劇であるにも関わらず、それでもなお一級のエンターテインメント作品になり得ているところである。これまでの作品でも独自の境地を切り開いてきたこの監督が、またしても新しいスタイルを確立したかに見えるこの作品は、紛れもなく必見である、と述べておこう。
ところで、上に述べたような映画技法に関する話に加え、ここでは主題となっている痴漢冤罪やその刑事裁判を巡る問題について触れておかねばならない。この点に関し、脚本を書いている周防監督を中心とした制作者側のスタンスは極めてはっきりしている。この映画で行なわれているのは、昔から批判されてきたのにもかかわらず一向に改善が図られていないらしい「人質司法」とも呼ばれる長期間の拘束と恫喝を伴う「拷問」に等しい取り調べから、警察及び検察、そして裁判官自身の面子を立てるためには、本来は「疑わしきは被告人の利益に」(より一般には「疑わしきは罰せず」だろうか)という原則があるにも関わらず、実際のところは本人が否認している以上は「無罪」の可能性があるのに、例えば痴漢冤罪ケースだとその97%の事案を「有罪」にしてしまうような刑事裁判のあり方を問い直す、という事になる。この映画が描いていることが実態をそのまま踏襲しているとしたら誠に由々しきことなのであり、一刻も早い改善に向けて世論が盛り上がるのを期待してしまう。
なお、この映画は当然比較の対象となるはずのF.カフカの『審判』や、芥川龍之介の「藪の中」あるいはその翻案である黒澤明の『羅生門』といった一連の「裁判モノ」作品とは異なって(ちなみに後者は端的に性犯罪を扱っているわけだが)、人間存在そのものの不条理さを問うというようなより根本的な問い掛け、あるいは「事実とは何か?」というような哲学的問い掛けを行なうのではなく、その目的とするところは取り調べ及び裁判の具体的プロセスに存在する問題点の指摘にあり、そもそも別次元と言っても良いだろう方向性を持っているということを一応述べておきたいと思う。
実のところ、こういうストレートな問いかけを持つ映画というのは、得てして「恥ずかしいモノ」とされがちであったように思うし、実際そういうものが多かったのだが、この映画がそうなっていないのはある意味驚くべきところなのである。時代の流れなのか、私自身の変化なのか、単に周防監督が凄いのか、今のところ判断は保留するけれど恐らくはそのいずれかなのであろう。ついでに言えば、この作品に対して、「一面しか捉えていない」とか、「物事を単純化し過ぎている」、あるいは「一方的過ぎる」といった批判を行なう場合には、この映画と同様に一体どの部分がそうなのかを具体的な形で示す必要があるということも述べておかねばならない。
最後に、周防氏に多大な影響を与えたというか、この人がいないと映画作家・周防正行は存在しないのではないかとさえ思える荒木伸怡・立教大法学部教授のサイトへのリンクを貼っておきたい。この恐ろしくシンプルな造りのページ、良く見ると「○STOP!痴漢えん罪」というページへのリンクのすぐ上にさりげなく「立教大学相撲部公式サイト」へのリンクが貼られていたりしてかなり笑える。ということは、あの映画で柄本明が演じていたのは…。以上。(2007/02/06)