David Fincher監督作品 Zodiac

今年のカンヌ国際映画祭にも出品されていた、そのマニアックな内容にも関わらず全米公開からわずか3ヶ月で日本公開となった鬼才デイヴィッド・フィンチャー(David Fincher)の、かれこれ5年振りの新作長編映画である。そもそも彼を一躍有名にしたあの傑作Sevenが、いわゆるシリアル・キラーによる劇場型犯罪を扱っていたものだけに、その原型とも言える1970年前後に実際に起きた事件をどう料理するのか、というところに興味があった次第。
さて、その作劇法だが、基本的にはドキュメンタリ的な筆致をとっておらず、事件とその捜査、及びマス・メディアの動き、そして「ゾディアック」を名乗る犯人と覚しき人物の行動などを、時系列に沿ってかなり大胆な脚色を加えつつ描写していく、というもの。物語(と敢えて言ってしまうが)の焦点は事件そのものよりも、ゾディアックやその模倣犯なのかも知れない連中が流す情報に翻弄されつつ、人生の歯車を狂わされた新聞漫画家・新聞記者・刑事の生き様を描くことに置かれていて、それはそれとして非常に良くまとまったものとなっている。
勿論、どうせなら事件そのものをもっと直接的に扱った方が良かったのではないか、という意見もあるとは思うのだが、そもそもゾディアックを名乗る人物が起こした一つのまとまった事件であるのかどうかも定かではない以上は、一応ゾディアックを名乗る人物が関与していると覚しき事件群に関与した人々の行動や発言などをまとめるしかない、と思うのだ。話は単調で、更には冗長で、そしてまたどうにも予定調和的過ぎるのだけれど、これはこれで良く出来た作品ではないか、と考えたのである。
以下、話は映画からはやや逸れるのだがもう少々お付き合い頂くとして、これは人類学などでも問題になるところなのだけれど、要は例えば人類学者(刑事・あるいは記者などと読み替えて頂いて構わない。)が直接見聞きすることが出来ないある社会における何らかの出来事、特に過去の出来事について直接的な調査や記述を行なうことは事実上不可能なのであり、そういうものはそれを記憶する、あるいはそれについての記憶を伝承するものからの聴き取りによって復元する他はない、ということである。そこに人類学の限界がある、とも言えるのだが、私の考えはそうではなく、そうした記憶群が現時点で観察可能な社会の中でどう語られているのか、あるいはどういう意味を附与されているのか、ということについては人類学者は直接的な聴き取り、あるいはそれをもとにした記述や分析が行なえるわけで、そこに人類学の可能性を見出すべきではないかと考えるのである。
話を戻すが、鑑賞中あるいは鑑賞後にそういう思考を行なった結果として、「こういう映画作りもアリではないか」、という結論に達した、ということを記しておきたい。蛇足だが、サン・フランシスコを舞台としたこの映画、彼の地といえばカラッと晴れた空を思い浮かべるのとは裏腹に、あたかもロス・アンジェルスを舞台としたSevenと同様にやたらと雨の降っている場面が多くて、これは多分意図的なのだろうなという感想を抱いたことを述べて終わりにする。以上。(2007/06/17)