日本宗教学会第59回学術大会レジュメ 於駒澤大学     2000/09/15
 
           託宣の記録と伝達 ―山形県庄内地方の事例を中心に―

以下、当日配布のレジュメを若干修正し(注と文献リストの不備です。申し訳ない。)、図及び資料部分をカットしたものを掲げます。ご批判、ご意見をお待ちしております。

はじめに
 本報告では、山形県庄内地方において「ミコサン」「ミコ」等と呼ばれる口寄せ巫女(1)により、「太夫」と呼ばれる神職が司祭する共同祭祀(2)での公表を目的として事前になされる「託宣」(3)に関し、その記録と伝達の諸相を、東田川郡三川町猪子地区を例として示し、考察を加える。
 さて、報告者は死者の口寄せを主業態とすると言われてきたその多くが視力障害を持つ口寄せ巫女について、特に彼女等の共同祭祀と見なせる儀礼への関与のあり方についての調査を続けてきたが、ここでは猪子地区で行われている三つの事例における託宣が、文字を介して伝達され、記録される事に注目したい。その中心に位置する人物の多くが盲人であるがために、文字文化との距離が過大視され、あるいは彼等の伝承・語りの持つ口頭性に重きがおかれて来たためか、巫俗における両者の相互関係に関する検討は管見する限りきわめて乏しい情況にあるのだが(4)、それが故に以下に示す事例に顕著に現れている両者の関係について考えることには、極めて重要な意味があるものと考える。

1.事例
1-1 猪子地区の概観(5)
 猪子地区は184世帯、男377人、女423人の計800人(1999年7月31日現在)からなる。就業産業別人口は第一次産業が74人、第二次産業が193人、第三次産業が189人。うち第一次産業の内訳は農業が74人である(1995年国勢調査)。耕地面積計19,593aのうち、田18,734a、畑600a、樹園地59aであった(1997年山形県農業基本調査)。
 同地区に住むミコサンO・M巫女(1923年生)は盲目の口寄せ巫女であり、死者の口寄せは年齢的な事情から既に止めているが、三川町とその周辺地域の以下に挙げるような共同祭祀に活発に関与している。

1-2 三つの共同祭祀とその託宣の記録と伝達
a.地神講:猪子を「上」/「下」二つに分けたうち、「上」の54戸からなる。3月21日が祭典日で、事前に(1999年は2月28日)O・M巫女のところへ託宣を聞きに行きこれを録音、その内容を書き起こしワードプロセッサを用いて印刷したものを直会の席で配布し、さらにこれを「堅牢地神講御託宣」と表紙に書かれた帳面に墨書にて清書し、次の宿元に渡す。直会の席で印刷して配布するようになったのは1994-5年のことで、それ以前は司会者が口頭で読み上げていたという。報告者が見学した1999年の直会でもそうであったが、印刷されるようになってからは読み上げることはなくなったらしい。最古の託宣記録は1921年のものが存在する(資料1)。以後、第2次世界大戦を経てその記述は次第に簡略化し、1959年のものは農産物に関する記述と火難のみが扱われている(資料2)。その後徐々に記述が詳細なものになり、1999年のものは、最長である(図1、資料3)。また「堅牢地神講御託宣」と表紙に書かれた帳面には1969年以後の託宣記録が、毎年もれなく編年順に収められている(それ以前のものも収められているが、年号は不連続である。)。表紙のないもう一分冊には1921年から1968年分までが、ばらばらな年号順に収められている。
b.大神講:旧村社琴平神社境内にある天照皇大神宮を祀る祭祀で、講員は20名(内13戸が八幡講に、7戸が地神講に重複加入している。)、祭典日は3月16日である。事前に(1999年は3月10日)O・M巫女の託宣を聞きに行き、当日直会の前に口頭で報告する。託宣を記録した紙片があり、会計記録などと一緒に箱に入れ、祭典が終わると次の年の宿元に渡す。託宣記録は便箋、大学ノート、原稿用紙に鉛筆、ボールペン、ワードプロセッサー(これ1996年のみ。)その他を用いて書かれている。1980年のものが最古であり、その内容、形式、筆記具は、全く不連続に変化する。また、これらの託宣記録は綴じられていない。1999年のものを資料として掲げる(図2、資料4)。
c.八幡講:八幡神社は旧無格社で、「下」のうちの60戸が加入している。祭典は3月19日で、事前に(1999年には3月3日)O・M巫女のところで託宣を聞いてくる。これが直会の席で配られる手書きの「八幡神社収支計算書」に簡潔にまとめられて記載される(図3、資料5)。会計報告は行われるものの、託宣の部分が読み上げられるという事はなく、また清書・保存も行われていない。

2.まとめ
 地神講では、形式に長い年月経過による異同はあるものの、基本的に和紙に墨書、という形は一貫して守られている。字体についても、書き手が毎年変わる事を考えると、楷書・丁寧な字、という基本線を保持していることはそれなりに重要である。これは、宿元が輪番で替わるがために、<他人に見せるもの>という意識が働くためかも知れない。
 これに対し大神講では、形式において変化が大きい。ここでは、託宣の文字化は、後に残すべき記録というよりは、口頭で伝えるためのメモ書き、すなわちその場限りのものであるように思われる。
 最後に、八幡講ではそもそも託宣に対する関心そのものが薄いように見える。
 結論として、3点を述べたい。
@基本的には口頭文化に属する口寄せ巫女による託宣と、その記録・伝達という形での文字文化への取り込みは、口頭文化と文字文化の相互関係の在り方を端的に示すものである。
A託宣の扱い方は各祭祀集団の裁量に任されており、これはそれぞれの祭祀への神職の関わり方が、画一的であるのとは対照的である。
B当地の巫俗を支えるのは、恐らくは託宣の持つ信憑性なのであろうが、それでもなお八幡講のような託宣への関心の稀薄な事例も存在する。更に言えば、地神講の事例では、記録を残すことが明確に制度化されることによって(6)、あるいはまた極めて古い託宣資料が存在し、それらを合冊しいつでも参照出来るように保存してきたという事実などによって、託宣の信憑性や、はたまた巫女への信仰心のようなものを超えて、その記録自体が自己目的化する事でより洗練化、長大化していったのではないかとさえ思える。しかしながら、託宣自体はやはりいずれの事例においても倦むことなく行われているのであり、そこには稀薄なものかも知れないとは言え託宣への信憑性が存在するであろう事は見て取れるのである。そのような意識が、非日常的と言って良いセアンスの場を離れても存続し続けている事は、巫俗というものが、日常にも深く浸透したものであることを示しているのではないかと考える。巫俗研究は、巫女自身並びに巫儀の場を離れ、日常的な場面をも含めた社会・文化の全体の中でのその位置づけや機能といったものの追求に向かうべき事を、改めて考えさせられる事例である。
以上。

〈注〉
(1)ここでは、大部分が盲目ないしは弱視であり、死者の口寄せを行うことが出来る職業型の巫女を「口寄せ巫女」と表記する。
(2)「共同祭祀」という表現は佐治靖[1988]に倣っているが、ここでは報告者が以前用いた「公的祭祀」とほぼ同様の意味で使用する。尚、「ここでいう『公的』とは例えば何らかの儀礼がある集団の目的達成を意図することを指し、逆に『私的』とはそれが個人的レベルに属する問題解決を目指すことを指す。」[平山 1996:74]事になる。
(3)当地では、後述のように依頼者側は主としてこの語を用いているのだが、口寄せ巫女の側ではむしろ「カミアソビ」という語が使われる。
(4)兵藤裕己[1985、1988、1993]、川島秀一[2000]による研究は数少ない例外と言える。
(5)本報告の事例は、昨年の学術大会で報告したものの一部を「託宣の記録と伝達」という点に焦点を絞って再構成したものである。ここに載せられなかった情報については同報告の要旨[平山 2000]を参照して頂きたい。
(6)ここで用いた「制度化」という語は、M.フーコーの言う、「言説(ディスクール)」の生産は制度によって支えられる、という議論[フーコー 1971(1981→1995)]を念頭においたものである。もう一つ付け加えると、文字化は批判的検討を可能にする、というJ.グディ[1977(1986):94]の見解の存在も考え合わせると、ここまでに述べてきた情況が極めて複雑である事が分かるであろう。記録された託宣は、当然の事ながら事後的なチェックが可能なのである。それが行われているという話は殆ど聞かないので(的中した例のみが後々まで語られる。)、託宣の記録は、要するに宮城県唐桑町のあるインフォーマントが同じく口寄せ巫女の関与する共同祭祀の際にいみじくも述べた通り、その年の吉凶その他を「心にとめとく」べく行われているという事になるのだろう。当たりはずれについては強いて問わない、という〈良識〉とでもいうものが、託宣を支えるエトスなのである。

〈文献〉
石津照璽 1961 「東北のおしら」『東北文化研究室紀要』第3集:1-21
猪子のあゆみ編さん委員会編 1990 『猪子のあゆみ』猪子町内会
井口淳子 1999 『中国北方農村の口承文化 語り物の書・テキスト・パフォーマンス』風響社
石川純一郎 1974 「口寄せ巫女の伝承 ―八戸市周辺の場合―」『國學院大學日本文化研究所紀要』第三十四輯:73-161
大川廣海 1950 「山形のミコ」『民間伝承』第十四巻第九号:18-21
岡田照子 1952 「庄内地方の「オコナイ樣」について」『民間伝承』第十六巻第十二号:18-22
オング、ウォルター J.  1982(1991) 桜井直文・林正寛・糟谷啓介訳『声の文化と文字の文化』藤原書店
川島秀一 2000 「東北の巫祖伝承」『東北民俗』第34輯:9-18
楠正弘 1985 「庶民信仰の動態論」中村瑞隆博士古稀記念会編『中村瑞隆博士古稀記念論文集 仏教学論集』春秋社:641-652
グディ、ジャック 1977(1986) 吉田禎吾訳『未開と文明』岩波書店
坂井信三 1997 「イスラーム世界の文字と呪術」『民族學研究』62-3:388-393
佐治靖  1988 「オシンメイサマの共同祭祀と憑霊信仰」『日本民俗学』176:1-35
佐藤光民 1958 「山形県庄内地方のオコナイ様信仰をめぐつて」『民俗』(相模民俗学会)第31号:6-8
− 1988 『温海町の民俗 温海町史別冊』温海町
戸川安章 1952 「山形県庄内地方における修験と巫女の機能と形態」『宗教研究』第131号:32-33
− 1954(1986) 「庄内地方における巫女とおこない神=v所収『新版・出羽三山修験道の研究』佼成出版社:411-432
原田敏明 1949 「部落祭祀におけるシャマニズムの傾向」『民族學研究』第14巻第1號:7-13
兵藤裕己 1985 『語り物序説 ―「平家」語りの発生と表現―』有精堂
− 1988 「物語の巫俗」川田順造・野村純一編『口頭伝承の比較研究[4]』弘文堂:84-109
− 1993 「語りの場と生成するテクスト ―九州の座頭(盲僧)琵琶を中心に―」民俗芸能研究の会・第一民俗芸能学会編『課題としての民俗芸能研究』ひつじ書房:327-368
平山眞 1996 「民間巫女と村落祭祀 ―宮城県唐桑町の事例から見た巫女の公的性格―」『東洋大学大学院社会学研究科紀要』第32集:63-75
− 2000 「「口寄せ巫女」の「共同祭祀」 ―山形県庄内地方の事例を中心に―」『宗教研究』323:298-299
フーコー、ミシェル 1971(1981→1995) 中村雄二郎訳『言語表現の秩序』河出書房新社
マクルーハン、マーシャル 1962(1986) 森常治訳『グーテンベルクの銀河系 活字人間の形成』みすず書房
三川町 1998 『三川町の概要 平成10年度版』三川町
柳田國男 1932→1946(1990)「口承文芸とは何か」『口承文芸史考』所収『柳田國男全集 8』ちくま文庫:14-82
若月麗子 1958 「山形県東田川郡 同族で祀るオコナイ様」『民俗』(相模民俗学会)第31号:4
CAROTHERS,J.C. 1959 Culture, Psychiatry, and the Written Word, Psychiatry : Journal for the Study of Interpersonal Processes,Vol.22 No.4:307-320