日本民族学会第34回研究大会レジュメ 2000/05/20 @一橋大学
 
東北日本の巫俗再考―山形県庄内地方の事例を中心として―


はじめに
 本報告では、山形県庄内地方に住むミコ・ミコサンなどと呼ばれる、その大部分が盲目の口寄せ巫女(1)が行ってきた、各種儀礼でのカミオロシ(2)に関し、これまで彼女らの主業態と見なされてきた観のあるホトケオロシ、及び宮城県・岩手県南部・山形県内陸部の口寄せ巫女との間の儀礼形態上の相違を中心に考察を加える。
 さて、これまでの東北日本の巫俗研究の中心は巫女自身の成巫過程や巫業、祭文や巫具等におかれてきたと言って良いだろう。巫女への依頼には大きく分けて個人的なものと集団的なものが考えられるが、特に口寄せ巫女に関しては、個人的な依頼による巫業、つまりは死者の口寄せ=ホトケオロシがその巫業の中で取り立てて注目されてきたが故に、集団での依頼による、その中でカミオロシが行われることになる共同祭祀(3)への関与に関する研究は極めて乏しい。口寄せ巫女が激減する中で、同時に消滅の一途をたどっている彼女らの関与してきた共同祭祀についての調査・研究は緊急課題であるものと考えると同時に、その実態を明らかにすることにより、東北日本の巫俗に関して、新たな知見が得られるのではないかと考える。
 報告者は以上のような問題意識のもとに、宮城県を皮切りとして、山形県内陸部(最上・村山地方)、同県庄内地方の口寄せ巫女の共同祭祀への関与の在り方を中心に、資料収集と参与観察を試みてきた。事例が集まるにつれ、庄内地方の巫俗の特質とも見なせる点が明らかになってきている。以下、事例の提示、その特質の抽出、最後にそこから読み取れることは何であるかについての考察の順に進めることにする。

1. 事例
 今回報告するのは、庄内地方に在住する/した7名(1999年の調査時点で健在であったのはうち6名である。)のミコないしミコサンと呼ばれる口寄せ巫女の事例であるが、ここでは特に庄内地方の巫俗の特質として報告者が注目している、彼女らの共同祭祀への関与の有無と、ホトケオロシとカミオロシにおける儀礼形態上の相違、すなわち口調上の相違があるかどうかという点について、これまでに聞き及んだ限りの資料を提供する。

@鶴岡市水沢→同市茅原町のK・S巫女(明治40年?―):同市由良地区では数年前まで毎月17日に当番に当たった「隣組」が同巫女のもとに赴いて「神寄せ」(=カミオロシ)を頼んでいた。ホトケオロシとカミオロシの口調は異なり、前者はメロディを伴う、すなわち韻律的(4)であるが後者はそうではないという(間接的な聞き取りによる。)。同巫女は今回取り上げる7名の中で唯一盲巫女ではないのであるが、巫業の形態に異同がないので、口寄せ巫女に含めて考えたい。ミコ・ミコサンという呼称が盲巫女・晴眼巫女(いわゆる「カミサマ系の巫女」(平山、1995で用いた表現。)のみならず、「神社ミコ」についても当然のことながら用いられる。)両方に共通して用いられるという事実が示す通り、両者の境界は東北日本の他地域に比べてはっきりしていない(5)。

A鶴岡市湯田川のK・T巫女(大正10年―):9月に周辺の集落のうちの5-6軒の家の「オコナイサマ(6)アソバセ」を行っているという。口調に関しては現時点では未調査である。

B西田川郡温海町小岩川のH・S巫女(大正7年―):廃業している。昭和44年まで4月15日の同地区の鎮守である住吉神社の大祭の前日に「湯立て」ないしは「湯の花祭神事」と呼ばれるカミオロシを行っていた。「湯の花祭神事」は今日もH・S巫女なしで行われているが、1999年の同神事の参加者は、「六根太夫」と呼ばれる世襲の祭祀集団員20名と神職2名、及び世話人2名の計24名の男性、及び手伝いの女性数名、他、役職不明の女性3名であった。同巫女のホトケオロシとカミオロシでは@のK・S巫女と同様に口調が異なっていたという(間接的な聞き取りによる。)。

C東田川郡櫛引町上山添のY巫女(?―平成8or9年):近隣の地域でオコナイサマを祀っている家々では、10月頃に同巫女の所へ行ってオコナイサマをおろし、「コロモ」を着せて貰っていたという。数軒合同で行なっていた例もある。同巫女の死後、EのO・Y巫女に依頼するようになった、という事例が存在する。また、小字単位で祭神を祀り、祭の日に同巫女を呼んで「託宣」(=カミオロシ)をして貰う、ということも生前には広く行われていたらしい。ホトケオロシとカミオロシではどちらも口調は歌ではなく平坦な語りであるという(間接的な聞き取りによる。)。

D東田川郡櫛引町上山添のS・S巫女(大正3年―):現在巫業は営んでいない。オコナイサマの祭祀、共同祭祀の実施、口調については不明である。

E東田川郡羽黒町細谷のO・Y巫女(大正12年―):同郡藤島町東堀越等何ヶ所かで共同祭祀に関与している他、春秋には各地でオコナイサマの祭祀も行っている。また、同じく東堀越の村鎮守・新山神社の8月18日の例祭では、10年程前に同巫女を招いて「カミアソビ」(=カミオロシ)をして貰ったことがあるという。東堀越の全戸が氏子であるといい、1999年の祭典ではかなりの数の男性が社殿に上り祝詞奏上・玉串奉奠等に参加していた。その際に、羽黒町仙道の神社ミコ・S巫女が「神楽」(舞と歌からなる。託宣は行われない。)を行っていたが、要するにこの部分の執行をO・Y巫女等に依頼したということらしい。なお、O・Y巫女は現在も活発に活動しており、例えば同地区の「地蔵様を遊ばせる行事(4月、8月の23日)」では25名ほどの女性祭祀集団の前で託宣を行っている。ホトケオロシとカミオロシで口調は変わらないらしい(間接的な聞き取りによる。)。カミオロシが平坦な語りであることは確認している。

F東田川郡三川町猪子のO・M巫女(大正12年―):ホトケオロシは止めているが、猪子周辺のかなり広範囲にわたって共同祭祀に関与している。隣村の成田新田では、4月24日に行われる大祭の際に、O・M巫女を呼び、同じく猪子在住の兼務宮司による祝詞奏上・玉串奉奠等の後、「託宣」=「カミアソビ」(=カミオロシ)をして貰う。ほぼ全戸が同神社の氏子であるが、集落は8組に分かれていて、各組から3人トーヤが出て計24人(うち各組から一人ずつ8名が宿元)がこの日の祭祀に参加する。全員男性である。なお、同巫女もまた、東堀越の新山神社の例祭に招かれたことがあるらしい。秋にはオコナイサマの祭祀も数軒で行っているらしい。ホトケオロシとカミオロシでは@K・S巫女と同様に口調が異なるという(間接的な聞き取りによる。)。カミオロシが平坦な語りであることは確認している。

2. 庄内地方の巫俗の特質の抽出
 特質の抽出に入る前に、宮城県北部と岩手県南部の海岸地方、宮城県内陸部、及び山形県内陸部の巫俗の在り方を簡単に整理しておく。
 宮城県北部と岩手県南部の海岸地方に関しては、大部分の口寄せ巫女が、例外なく女性主体の祭祀集団による共同祭祀である、オシラサマアソバセやカミサマアソバセ(どちらもカミオロシと見なせる。)に関与する。また、オガミサマ・オカミン等と呼ばれる口寄せ巫女について、ホトケオロシに関しては全て韻律的であるものと思われる。また、カミやオシラサマをおろす場合にも、基本的に韻律的でない例は存在しないようである。報告者の知る限りでは、唐桑町のO・S巫女(実際に確認)、気仙沼市のH巫女(本人談)、陸前高田町のS巫女(間接的な聞き取り)、同じくT巫女(間接的な聞き取り)については全て、ホトケ、カミの分け隔てなく、韻律的な語りを行うという。
 宮城県内陸部及び海岸部でも本吉町以南では状況は一変し、共同祭祀への関与の事例は、管見する限りでは見当たらず、上記地方と同じくオガミサマ・オカミン等と呼ばれる口寄せ巫女は専らホトケオロシを行ってきた。そしてそれらもまた例外なく韻律的である。
 山形県最上・村山地方では、数名を除いてこれもその主体はほぼ例外なく(7)女性である共同祭祀に関与していた。また、最上地方では、口寄せ巫女の巡業とも言える事例が存在する。次に、同地方ではオナカマ・オナカマサンと呼ばれる口寄せ巫女について、中山町のY・Y巫女、尾花沢市のK・T巫女、同市のS・M巫女、真室川町のS・E巫女、同町のK・T巫女、戸沢村のA・K巫女については全て間接的な情報ながら基本的には死者とカミには区別をおかず、どちらも韻律的な語りであったらしい。
 以上から本報告における問題意識に則って庄内地方の巫俗の特質を、口寄せ巫女の活動に限って抽出を試みるならば、
@共同祭祀への関与は同地方で近年まで活動していた/現在も活動している6名の口寄せ巫女に共通に見られる。残り1名についても未確認とは言えその可能性は強い。さらにまた、うち3名は、村落において中心的祭祀と見なして良いだろう旧村社レヴェルの神社祭祀に関与したことがある。
Aホトケオロシとカミオロシについて前者ではメロディを伴う歌、後者ではフラットな語りという形式で口調を変える例(現在までに確認出来た限りでは3例)が存在する。
という2点を挙げられるだろう。

3. 考察
 さて、報告者はまず第1に、報告者は宮城県内陸部などでは口寄せ巫女が共同祭祀に関与しない例が圧倒的であるのに対し、宮城県北部と岩手県南部の海岸地方、山形県最上・村山地方、そして庄内地方ではサンプル数は少ないとは言えほぼ全員が関与してきた、という点に注目する。さらには、庄内地方では共同祭祀であることに加え、村落の中心的な祭祀に関与する例さえ現れているのである。この点については、どちらかと言えば私的領域の事柄についての依頼に対応することが主業態とされてきた口寄せ巫女を村鎮守の例祭・大祭等という極めて公的性格の強い儀礼に関与させ得るようないかなる要因が庄内地方に存在するのかについて考えなければならないだろう。
 また、第2には、恐らく上記の問題とも結び付くものであると考えるが、同じく宮城県及び山形県内陸部の口寄せ巫女はホトケ・カミのどちらをおろす場合にもその時の口調はメロディを伴う歌であるのに対し、庄内地方では口調を変える事例が存在することを問題視したい。
 ここでは、ひとまず韻律性のないカミオロシは韻律性のあるカミオロシに比べより公的性格の強い祭祀と結びつきやすいのではないか、という仮説が立てられるかも知れない。
 ところで、韻律性のないカミオロシと公的性格の強い祭祀との結び付きのいかにして生じたのかという通時的変遷を問うことは極めて困難である。カミオロシに関して、韻律性がある方が伝統的な技法ないし古態であり、韻律性がない方が近年現れたもの、ということは一概には言えない。同じように、口寄せ巫女が村落レヴェルの祭祀に関与する事例が近年になって現れたものかどうかについても、はっきりしたことは不明である。東堀越の新山神社例祭の事例は口寄せ巫女が村の祭祀に関わり始める過程を考える上で誠に興味深いのではあるが、やや突発的な観がありこれを一般化することは危険であろう。カミオロシの古態や、巫女の各種祭祀への関与の変遷(8)が現在の所資料的に明らかでない以上、両者の関係の変遷、ましてやその起源については口を慎むの他はない。
 結局、以上の事例から導き出せる最大限の事柄は、先述の仮説、つまりはカミオロシに関して韻律性の無いことが、そのより公的性格の強い祭祀への関与とリンクしている、という点に尽きているのではないかと思われる。
 それでは何故に韻律性の無いことが公的性格の強い祭祀と結び付くのか、という点について、現時点では「そうなのだからそうである。」という説明とは言えぬ説明しか出来ないのであるが(9)、それはともかくも、庄内地方における以上述べてきたような事例は、少なくとも<シャマンあるいは巫者=主として私的領域において活動する呪術宗教的職能者>、という図式を解体し得るものであると同時にまた、これまで日本本土の口寄せ巫女に関してはほとんど注目されてこなかった、ないしはいまだ見出されてすらいなかったその語りの韻律性の有無と、その公的領域への参入の可能性なり不可能性なりが不可分に結びついていることを示す、極めて重要なものなのではないかと考える。以上(補注10)。

<注>
(1)ここでは、大部分が盲目ないしは弱視であり、死者の口寄せを行うことが出来る職業型の巫女を「口寄せ巫女」と表記する。
(2)「カミオロシ」という語は最上・村山地方で良く聞かれる言葉で、庄内地方では余り聞かれない。巫女の側ではむしろ「カミアソビ」という語が使われ、他に主として依頼者側が用いる語には「神寄せ」「託宣」「お告げ」など様々である。本報告では、宮城・山形両県全体で死者の口寄せを表現するために良く用いられる「ホトケオロシ」という語との対比を明確にすべく、カミを憑依し予言・託宣を行うことを「カミオロシ」という語で表記する。また、事例中ではなるべく聞き取った語彙をそのまま使用する。
(3)「共同祭祀」という表現は佐治靖(1988)に倣っているが、ここではこれまで用いてきた「公的祭祀」とほぼ同様の意味で用いる。そして、「ここでいう『公的』とは例えば何らかの儀礼がある集団の目的達成を意図することを指し、逆に『私的』とはそれが個人的レベルに属する問題解決を目指すことを指す。」(平山、1996a、p.74。)
(4)川田順造(川田、1992)の表現による。
(5)他地域では周知の通りイタコ/カミサマ、オガミサマ/カミサマのような語彙上の区別が存在する。前者については、後者ほど明瞭ではないということも言われていることも断っておく(池上良正、1999などを参照のこと。)。
(6)青森県や岩手県ではオシラサマと呼ばれる2体からなるご神体・採り物に類似したもの。
(7)例外は中山町の岩谷観音の近年の動きだが、これについては「創られた」儀礼であるという色彩が濃いので、元々の巫俗の在り方を反映するものでは無いと考える。
(8)こちらについては、全く資料がないわけではない。猪子や成田新田ではかなり古い託宣の記録が文書化されて保存されているからである。但し、遡れるのはせいぜい明治期迄である。この点については拙稿(平山、2000)を参照のこと。
(9)とは言っても、韻律性の有無もまた言語表現の持つ特性の一つなのであると考えれば、それが使用者集団によって<韻律性あり−私的性格の強い儀礼>、<韻律性なし−公的性格の強い儀礼>という連合が、それこそ恣意的に形成されることもあり得るのかも知れない。要は、公的/私的という二分法が、カミオロシの韻律性の有無によって表象されている、ということなのかも知れない。
(補注10)最後の辺りが分かりにくいかも知れない。要は、色々とその原因を考えても、それらが結局はこちらで勝手に作り上げた学説に過ぎないことが透けて見えてしまうということ、あるいは、そういう学問のための学問的な退屈な議論は避けたいということ。例えば、庄内の数名の口寄せ巫女は、中心的な祭祀に食い込むために、韻律的でないカミオロシの技法を自ら編み出した、などというのは、実証不可能だし、余りにも物事を単純化してしまう危険極まりない物言いである。いつ、誰が始めたのかが分からない、また、他の巫女(特に、師匠筋の異なる巫女)がどうやっているのかが分からないということは、別段それが差異化を計ろうと意図してなされたことではないことを物語っている。要は、韻律性の欠如とは、P.ブルデューのいうハビトゥスのような、それ以上の解釈を拒むものものかも知れない、ということである。歴史が刻印されている、というのは恐らく間違いのない事実ではあろうけれど、それよりも重要なのは、こうした事実が存在することそのものである、という立場をとりたいと思う。(2000/05/23)

<文献>
池上良正『民間巫者信仰の研究』未來社、1999
猪子のあゆみ編さん委員会編『猪子のあゆみ』猪子町内会、1990
内田るり子「音楽の側面からみたシャマニズムの諸相 ―日本周辺地域を中心に―」所収加藤編、1984
烏兎沼宏之『村巫女オナカマの研究』藻南文化研究所、1987
― 「「オナカマ」考 ―神子と瞽女の関連について―」『東北学』vol.2、2000(1991)
大川廣海「山形のミコ」『民間伝承』第十四巻第九号、1950
岡田照子「庄内地方の「オコナイ様」について」『民間伝承』第175号、1952
― 「庄内地方のオコナイサマ」所収石津照璽「東北のおしら」『東北文化研究室紀要』第3集、1961
加藤九祚編『日本のシャマニズムとその周辺』日本放送出版会、1984
川田順造『口頭伝承論』河出書房新社、1992
川村邦光『巫女の民俗学−<女の力の近代>−』青弓社、1991
小島美子「音楽からみた日本のシャマニズム」所収加藤編、1984
櫻井徳太郎『日本のシャマニズム 上・下巻』吉川弘文館、1976,1978
佐治靖「オシンメイサマの共同祭祀と憑霊信仰」『日本民俗学』176、1988
佐藤敏悦「語り物文芸と民間巫女伝承の研究(1)(2)(3)」『石巻市史編纂資料』1,2,3集、1978,79,80
佐藤光民『温海町の民俗 温海町史別冊』温海町、1988
鈴木清訓「山形県内陸地方の民間巫女オナカマについて」『日本民俗学』199、1994
戸川安章「庄内地方における巫女と「おこない」神」所収『新版・出羽三山修験道の研究』佼成出版社、1986(1954)
平山眞「口寄せ巫女と村落社会―宮城県本吉郡唐桑町の事例より―」『東洋大学大学院社会学研究科紀要』、第31集、1995
― 「民間巫女と村落祭祀―宮城県唐桑町の事例から見た巫女の公的性格―」『東洋大学大学院社会学研究科紀要』第32集、1996a
― 「シャーマニズムと女性を巡る考察」『白山人類学』4号、1996b
― 「修験道と巫俗の交錯―山形県村山地方の事例より―」『東洋大学大学院社会学研究科紀要』第35集、1999
― 「「口寄せ巫女」の「共同祭祀」―山形県庄内地方の事例を中心に―」『宗教研究』323、2000
文化庁文化財保護部編『民俗資料選集14 巫女の習俗T―岩手県―』(財)国土地理協会、1985
― 『民俗資料選集15 巫女の習俗U―青森県―』(財)国土地理協会、1986
― 『民俗資料選集20 巫女の習俗V―福島県―』(財)国土地理協会、1992
― 『民俗資料選集21 巫女の習俗W―秋田県―』(財)国土地理協会、1993
明治大学社会学研究部編『昭和53年度 実態調査報告書 庄内農村における村落共同体的性格の変容』1980
 

こちらは、学会当日配布されプログラム掲載のテクスト(脱稿は2000/01/31)です。事実誤認その他がありますので、上記の当日配布の正規版を御参照下さい。

  東北日本の巫俗再考−山形県庄内地方の事例を中心として−

 本報告では、山形県庄内地方に住むミコ・ミコサマなどと呼ばれる、その多くが盲目の口寄せ巫女が行ってきた、共同祭祀と見なせる儀礼でのカミオロシに関し、これまで彼女らの主業態と見なされてきたホトケオロシとの間の儀礼形態上の相違を中心に考察を加える。  さて、これまでの東北日本の巫俗研究の中心は巫女自身の成巫過程や巫業、祭文や巫具等におかれてきた。巫女への依頼には大きく分けて個人的なものと集団的なものが考えられるが、特に口寄せ巫女に関しては、個人的な依頼による巫業、つまりは死者の口寄せ=ホトケオロシがその巫業の中で取り立てて注目されてきたが故に、集団での依頼による、その中でカミオロシが行われることになる共同祭祀への関与に関する研究は極めて乏しいと言ってよい。口寄せ巫女が激減する中で、同時に消滅の一途をたどっている彼女らの関与してきた共同祭祀についての調査・研究は緊急課題であるものと考えると同時に、その実態を明らかにすることにより、東北日本の巫俗に関して、新たな知見が得られるのではないかと考える。
 報告者は以上のような問題意識のもとに、宮城県を皮切りとして、山形県内陸部、同県庄内地方の口寄せ巫女の共同祭祀への関与の在り方を中心に、資料収集と参与観察を試みてきた。事例が集まるにつれ、庄内地方の巫俗の特質とも見なせる点が明らかになってきている。
 今回報告するのは、庄内地方に在住する/した7名(1999年の調査時点で健在であったのはうち6名である。)の口寄せ巫女の事例であるが、ここでは特に庄内地方の巫俗の特質として報告者が注目している、彼女らの共同祭祀への関与の有無と、ホトケオロシとカミオロシにおける儀礼形態上の相違、すなわち口調上の相違があるかどうかという点について、これまでに聞き及んだ限りの資料を提供する。それを要約するならば、
@共同祭祀への関与は同地方の7名全ての口寄せ巫女に共通に見られる。
Aホトケオロシとカミオロシについて前者ではメロディを伴う歌、後者ではフラットな語りという形式で口調を変える例(現在までに確認出来た限りでは3例)が存在する。 ということになる。
 考察は以上2点の特質についてなされる。すなわち、まず第1に、報告者は宮城県及び山形県内陸部の口寄せ巫女が共同祭祀に関与しない例の方がむしろ多いのに対し、庄内地方ではサンプル数は少ないとは言え全員が関与してきた、という点に注目する。この点については、どちらかと言えば私的領域の事柄についての依頼に対応することが主業態とされてきた口寄せ巫女が、共同祭祀という公的性格の強い儀礼に関与しやすい社会・文化的なコンテクストが果たして庄内地方に存在するのかについて考えなければならないだろう。また、第2には、恐らく上記の問題とも結び付くものであると考えるが、同じく宮城県及び山形県内陸部の口寄せ巫女はホトケ・カミのどちらをおろす場合にもその時の口調はメロディを伴う歌であるのに対し、庄内地方では口調を変える事例が存在することを問題視したい。そのような表現形態上の相違が生じている点に関して、同地方のカミ観・ホトケ観、ないしは前述の社会・文化的特質がいかなる関わりを持つかについて考察を進めたいと思う。)