近現代宗教研究批評の会第28回例会       1999/07/17

題目:「東北シャマニズムに関する社会人類学的考察
         −宮城・山形両県における「口寄せ巫女」の「共同祭祀」を題材に−」

<要旨>
 これまでの東北日本のシャマニズム(巫俗)研究においては、「口寄せ巫女」は主として「死霊の口寄せ」を行うものとされ、村落や講集団等の共同体による祭祀の司祭者となっている事例は等閑視されてきた観がある。今回はここ数年来報告者が調査を行ってきた宮城県及び山形県内の「口寄せ巫女」の「共同祭祀」の事例を提示し、社会人類学的視点からの考察を加えた。
 本報告では宮城県本吉郡唐桑町及び山形県東田川郡三川町の事例を扱ったが、「口寄せ巫女」による「共同祭祀」の特徴として、唐桑町に関していえば担い手が主として女性の講的あるいは同族的集団であり、それとは反対に三川町などでは村落規模に匹敵する男性主体の祭祀にも少なからず関与していることを述べた。いずれにしても祭祀対象や祭祀集団、あるいは祭祀自体の形態にかなりのバラツキがあることが指摘出来るのであるが、ここで重要なことは、こうした祭祀が、先行研究の扱い方とは裏腹にかなり大規模なものであること、及び極めて広範囲にわたって行われていたという事実である。
 一般には村落単位で行われる「共同祭祀」のようなものは、神社を中心として、そのほとんどが男性からなる氏子達及び神職の手によって執行されるものという暗黙の了解が、研究者や、一般の人々の中には存在するのではないかと思う。それは確かに必ずしも間違いではないのだが、主として女性の手による、「口寄せ巫女」が関与する、その規模からみて「公的」な性格を持つと言って良いだろう「共同祭祀」が実際に行われてきたこと、そしてそれが両県内では必ずしも特殊な祭祀形態とは考えられないこと等は、無視しえない事実として認識されるべきであろう。
 報告者は、こうした祭祀が持つ意味をさらに追求せねばならないと同時に、更にはまた、「口寄せ巫女」と呼ばれる宗教職能者や、巫俗と称される宗教文化の持つ社会的機能について再考すべきではないかと考え、問題をいわゆる「シャマン/プリースト論」に留めるべきではないことを述べた上で、堀一郎の「遊幸思想」、兵藤裕己の口頭伝承の成文化に関する議論、田中雅一の宗教職能者の類型とその権力との関係に関する議論、M.サーリンズやP.クラストル、あるいは彼らを敷衍した上野千鶴子の権力や権威の外在性をめぐる議論を紹介しつつ、それでもなお今回は結論は保留する、という形で報告を終えた。