Cordwainer Smith著、伊藤典夫訳『第81Q戦争』ハヤカワ文庫、1997(1979)
Cordwainer Smithの日本における4冊目の翻訳書である。この人物の生きざまは、私が尊敬してやまないもう一人のSF作家、James Tiptree,Jr.と同じくらい桁外れのものだ。C.Smithの本名はPaul Linebargerといい、その正体は「ジョンズ・ホプキンズ大学の政治学教授」であり、さらには「アメリカ政府の外交政策顧問」であったというのだから。専門は極東政治であったらしく、私は未見だが中国での戦争体験を基にした『心理戦争』(翻訳者不明、みすず書房、1953(初出年不明))という著作があるのだが、これはタイトルからして洗脳や薬物その他のテクノロジーによる意識の変革等を主要なモチーフとして持つ彼の作品に濃厚に影を落としているのだろうと思う。そして勿論、そうした経歴に輪をかけて、SF作家としてはCordwainer Smithという筆名を用いて、とりあえずはニューウェイヴやサイバーパンクの先駆をなしたという意味で、さらにはそれ以上の意味でSF文学史上に今後末永く残るであろう傑作群を書き残し、1966年に53歳の若さでこの世を去る、という波瀾万丈の生涯を送った人なのである。
さて、本書はInstrumentality of Mankindという1979年に出版された短編集の全訳なのだが、このタイトルの語は『鼠と竜のゲーム』(伊藤典夫・浅倉久志訳、ハヤカワ文庫、1982(1975))のあとがきにある通り、主として伊藤の主張によって「人類補完機構」と訳されることになった。本書の4分の3を占める諸短編と、J.J.Pierce編によるThe Best of Cordwainer Smithを二分割して邦訳出版したものである『鼠と竜のゲーム』及び『シェイヨルという名の星』(伊藤典夫訳、ハヤカワ文庫、1994(1975))に収められた中短編、さらにはC.Smithの唯一のSF長編『ノーストリリア』(浅倉久志訳、ハヤカワ文庫、1987(1975))、及び幾つかの未邦訳の短編は、彼が構想していた西暦16,000年代位までの壮大な未来史を前提に書かれたもので、伊藤及びハヤカワ文庫の出版ポリシーに従えば「人類補完機構シリーズ」とでも言いうるものである。C.Smithの構想では人類は将来ある種の寡頭政治体制に入ることになるわけで、その中心をなすのが「人類補完機構」ということになり、これがそれぞれの物語において様々な局面で、様々な姿形をとって現れてくることになる。
さて、本書に収められた作品の出来映えは、やはり『鼠と竜のゲーム』と『シェイヨルという名の星』の諸作品に比べれば見劣りする、と言わざるを得ない。ただ、C.Smithが「14歳」の時に書いた邦訳版表題作「第81Q戦争」や、「人類補完機構」の創設に関わる二つの短編「マーク・エルフ」及び「昼下がりの女王」、さらにはランボーの『酔いどれ船』をモチーフとした傑作「酔いどれ船」など、貴重な作品が収められている。
なお、伊藤によれば未邦訳の短編も近々刊行されるらしいので、期待したいと思う。
付け加えるが、『ノーストリリア』における、「人類」と、動物を何らかのテクノロジーで加工して人間に近い形にされた「下級民」の、ある種階級闘争的な「歴史」に深く荷担してしまう、「正常」な「ノーストリリア人」が持つテレパシー能力がないという「障害」を持った、しかしながら我々から見ればある意味で「平凡」とすら言える「16歳」の少年ロッド・マクバンの物語は、当然のことながら庵野秀明のアニメーション作品にも多大な影響を与えている。なにしろ、ロッドと「下級民」でもある猫女ク・メルの恋は、薬物投与によって引き延ばされた「千年」という感覚的時間の中で、あくまでもヴァーチュアルなリアリティとしての意識のレヴェルにおいて成就されるのだから。(1997/11/04)