Steven Spielberg監督作品 A.I.
タイトルの「A.I.」とはArtificial Intelligence、即ち人工知能のこと。この、E.T.にも酷似した恐ろしく直截的なタイトルを持つSteven Spielberg監督の最新作は、「愛」(ちなみに、「AI」とローマ字かな入力し、更にかな漢字変換するとこうなります。)という感情を人工的にプログラムされた少年型ロボット・デイヴィッド(Haley Joel Osment)の、身体(body)と魂(soul)の彷徨を描く、極めて感傷的なSF超大作である。

既に書評欄で述べた通り(こちらを参照のこと。)、この映画の原案はBrian Aldissが1969年に発表した短編'Supertoys Last All Summer Long'であり、その後諸々の変遷を辿って最終的にS.Spielbergが映像化にこぎつけた、ということになる。

ところで、Aldiss自身が「スタンリーの異常な愛情―または私とスタンリーは如何にして『スーパートイズ』を『A.I.』に脚色しようとしたか―」(所収『スーパートイズ』竹書房、2001.04)というテクストの中で語っているのは、Aldissが最終的に完成させたこの映画の原案となった「スーパートイズ三連作」は、「コンセプトとして、わたしの考える一本の映画に必要なものをすべて含んでいる。ニューヨークの洪水も青の妖精≠燗o場しない。ただの、愛と知能を描いた強烈で力強いドラマ」(p.362)なのだそうで、事実その通りなのだけれど、実際に映像化されたものには、「ニューヨークの洪水」も「青の妖精=vも極めて重要な要素として登場している。特に、後述のように後者は本作品のメイン・モティーフでさえある。どうもこの二人の間には、意志の疎通が基本的に欠如しているようなのだが、余り気にせずに先に進もう。

さて、青の妖精=iBlue Fairy)と言えば、Walt Disneyによる第2作目の長編アニメーション作品(1940年に作られたこの作品が、かの名曲‘When You Wish Upon a Star’を生んだことは周知の通り。まあ、そんなことはどうでも良いのだけど…。)の印象が強烈過ぎて困ってしまう、そもそも誰が執筆したのかさえ定かではない(イタリア人なんだろうけど…。これはちょっと興味がある。で、ネット内を探ってみたのだが、結局良く分からなかった。うーん。何とかしてくれー。非常に気になる。)極めて良く出来た文芸作品『ピノキオ』において、ジェペット爺さんが造った「木偶人形」であるピノキオを「人間」に変える文字通りの魔法を持つ存在。これがこの映画のほとんどメイン・モティーフとして登場する、ということは即ちこの映画、ひいてはAldissの「スーパートイズ三連作」すらもがそもそも『ピノキオ』を原案としている、という事実を如実に示すことになる。

そう、本映画のメイン・プロットは、ある事情からとある女性モニカ・スウィントン(Frances O'Connor)を母親として愛することをプログラムされたデイヴィッドが、これまたある事情があってその女性からの愛を全面的に享受出来ない状況に追い込まれ、その原因についてデイヴィッドは、自分が「人間」ではないことが問題なのだ、という推論を行ない、そうこうするうちにふと耳にした童話『ピノキオ』に登場する、人形を「人間」に変え得る力を持つ青の妖精≠探す旅に出る、というものなのである。

その身体と魂の行く末についてここでは詳しく触れないことにするけれど、やや感傷的過ぎるのが気になったとは言え、人工的に造られたデイヴィッドが、人類が死滅した2,000年後の世界において彼の後継機達にデータ=記憶を与えることにより、ある意味で造物主的行為の一端を担ってしまう、という図式は、誠にアイロニカルかつ捻りの利いたものとして、評価したいと思う。

以上、とりとめもなく書き付けてきたけれど、最後に気になったことを2点ほど。その1。デイヴィッドの開発グループのリーダーであるホビー教授(William Hurt)、即ち「造物主」は男性であり、反対にデイヴィッドの「母親」となる女性・モニカは「被造物」であるデイヴィッドの「愛の対象」に過ぎない、という基本図式は、そもそもの原案者達や最終生成物であるこの映画の作り手達の持つ、ユダヤ・キリスト教的と言って良いだろう極めて家父長制的な〈造物主=神〉観念をそのまま反映しているのではないか、ということ。その2。本作品は、そもそもAldissの上述した短編小説の映像化を最初に思い付き、最終的に製作者の一人として名を連ねることにはなった故S.Kubrickに捧げられていて、確かに画面構成の端々にそれが感じ取れたのだけれど、ラストの20分ぐらいについて言えば、Kubrickであれば間違いなく、ナレーションは一切無しで、台詞も限界まで切り詰めることで、商業性は度外視しつつ、感傷的になることは極力避けようとしたであろう、ということ。まあ、強いて言えば、この辺りが商業的には最も成功したけれど中身が伴わないと言われ続けてきた映画人である、Spielbergの限界なのかも知れない。付け加えると、そもそも人類が死滅した世界における「語り手」(実際に、男性の声で、いかにもおとぎ話、といった感じの語り口でナレーションが入るわけです。)とは一体誰なのか、という問題もある。やはり、ユダヤ・キリスト教的な意味での、全てを産み出した造物主としての神の視点、というものが想定されているのではないかとも思う。この点もまた、基本的にユダヤ系であるSpielbergの限界、ということになるのだろうか。以上。(2001/07/13)