京極夏彦著『百器徒然袋−雨』講談社ノベルス、1999.11

中禅寺シリーズの生んだ最強のキャラクタ、探偵・榎木津礼二郎もの連作中編集である。しかし、中禅寺も榎木津と同じ位の頻度で登場するので、これまでの作品のテイストはそのまま維持されている。物語の構成は基本的に『巷説 百物語』と同じ「枠もの」。何かしら事件があって、それを榎木津とその仲間達が事件当事者を「はめる」ことでそれなりの解決を果たす。枠ものなんていう一見古臭い手法でも、類い希な筆力ととんでも無く該博な知識を以ってすれば、まだまだ幾らでも新しい物語構築は可能だ、ということを見事に証明している。最もインパクトのある第一中編「鳴釜」では集団レイプ事件を扱っているのだけれど、このシリーズが基本的にそうであるように、昨今(20世紀末)の社会問題を昭和20年代終盤辺りの文脈に置き換える手法がここでも用いられていることになる。レイプにしろ、セクシュアル・ハラスメントにしろ、公の場で裁きが行われるようになったのはごく近年のことである(いつから、とはっきり限定は出来ないし、それが国や地域によって異なることも確かではある。)。とは言え、今なお「泣き寝入り」というケースが大多数であるとも言われる。作中で中禅寺は「そんな連中(当該事件の当事者:平山)を二三人改心させたって性的な暴行事件の発生件数は減らないよ。こればっかりは世の中が変わらなきゃどうにもならない」(p.81)と諦念を表明しているが、少しは良くなったとは言え、例えばかの大阪府知事の最近の言動なり何なりを見ていると、更なる意識変革の必要性を痛感してしまう。フィクションとはいえ、作中で榎木津と中禅寺が仕掛ける断罪手段はちとやりすぎかとも思うのだけれど(笑えることは笑える。描かれるのは確かに陰惨な事件なのだけれど、笑い飛ばす、というのも一つの解消手段かも知れない。少なくとも、陰惨なものを陰惨なまま描いてしまったら、誰も見向きもしないのだから。)、警察も司法も世論も動かない状況では致し方ないのかも知れない。そうそう、問題はその辺にあるのであって、そもそも究極的には行政や司法や立法に携わる人員のほぼ半数を女性にする、位の改革をしないと、根本的には何にも変わらないのだと、私は本気で考えている。但し、立法府が全ての基本にあって、その人員を選ぶのは選挙民=国民なのだから、恐ろしく道は険しい。昨日一応妥当と思える結論が下った大阪府知事が関わった一連の案件に対して、大阪府民がどういう反応をするのかを注目しているところなのであった。(1999/12/14)