瀬名秀明著『ブレイン・ヴァレー』角川書店、1997
『パラサイト・イヴ』に続く長編第2作である。同書の主要な舞台である「船笠村」にある公立の研究機関「ブレインテック」では、所長である北川嘉朗を中心として、「神」を人工的に作りだして人類を次のステージへと「進化」させようという壮大かつありきたりな「OMEGAプロジェクト」というものが隠然とすすめられており、主人公の脳生理学者・孝岡護弘はある年の8月31日につくば市からここに赴任、知らぬ間に同プロジェクトに協力させられる羽目になる。「OMEGAプロジェクト」遂行のために不可欠なものとして考えられているのは、北川自身のまとめによれば、@代々船笠村の巫女を努めてきた「船笠一族の脳を徹底的に解析し、彼女たちがどのような機序で神を感じているのかを明らかにする」こと、A「認知心理学の観点から心の進化を研究する」こと(ここではチンパンジーの言語習得プロセスが主要な研究対象となる。)、B「ニューロコンピュータと人工生命の手法を用いて、人工の脳をサイバースペースに構築し、人工の意識を生み出す」こと、C「脳を分子生理学の立場からとらえ、神を見るメカニズムを分子のレベルで解き明かす」(以上、下巻pp.238-9)こと、という4点であり、各研究者はそれぞれの目的を達成すべく集められ、そのほとんどが「ブレインテック」の最終的な目的を知らされることなく研究に従事している、という設定である。実はこの親切にも北川によって要約された4点というのがまさに本書自体の理論的道具立ての骨格をなすものであって、物語ではCの問題を中心としてそれぞれの立場での研究に従事する数人の研究者の姿を描いていく。
さて、北川の考えでは、「神」とは基本的には「幻覚」なのであり、その「幻覚」を見せているのはまさに脳の働きであり、そこに介在するのが「エンドサイコシン」と呼ばれるような「幻覚」性の化学物質であるということになる。つまり「臨死体験」や「エイリアン・アブダクション(異星人による誘拐体験)」、あるいは「てんかん」に伴う幻視体験は、ラファエロの絵画『キリストの変容』、W.ブレイク、宮沢賢治、J.A.ランボーの詩、ドストエフスキーの小説に見られるような宗教的なヴィジョンを伴うことが多く、また、これらの体験を引き起こすのは実はシナプス表面にあるレセプターの一種である「NMDAレセプター3」の機能によるもので、脳の一部に「虚血」などが生じるとグルタミン酸の過剰によるシナプス死を防ぐべくエンドサイコシンのような「内因性リガンド」が大量に放出され、これが幻覚性を持つためである、という仮説が示される。さらに、北川の考えでは人類が現在あるような形に進化してきたのは「神」を発明したからで、人類の次の段階への「進化」は、ヒトの脳を超えた脳を持つ人工生命を作り、これに新たな「神」を発明させ、人々がそれの起こす「奇跡」を見ることによって可能になる、ということになる。まあ、論理的には無茶苦茶で、余りにも馬鹿馬鹿しい発想であり、かなりの実績を持ちかつ極めて権謀術数にたけた人物であると設定されていると思われる北川がこんな幼稚なことを考えるだろうかという疑問が湧いてくるのだが、先に進もう。以下では、本書の持つこれに類した数々の問題点を拾い上げていく。
まず、物語の中心は先述の脳生理学者・孝岡の脳の分子生物学的研究と彼自身のエイリアン・アブダクション体験になっているのだが、この辺りの設定は極めて作為的である。どうやら瀬名の専門領域はこの辺りにあるらしく、「なんとかレセプター」と、「てんかん」、「臨死体験」及び「エイリアン・アブダクション」の関係に関する最新の理論の紹介その他の記述・説明が図や表を用いた途轍もなく克明なものであるに対し、人工生命やニューロコンピュータ、動物行動学や認知心理学、シャーマニズムと村落祭祀のような、同じ程度に重要なのではないかと思われる事項についての記述・説明は極めてあっさりしたもので、特に最後の点に関しては何も触れていない。どうも、前作同様に、余り良くない意味で自分の知っていることをひけらかさんがために本書を執筆したように思えてならないのだが(要は「啓蒙」になっていない。)、それがあだとなってこうしたバランス上の難点となってしまっている。まあ、小説なのだから、主人公の視点を中心にして描いたのであればそれはそれでよいと思うのだけれど、実のところ、本作品での記述を見る限り視点の置き所は登場人物各人に割合均等に分散しているのだから、それぞれについてそれなりにバランスのある記述が必要であったのではないかと思う。本書のように科学知識を記述しなければならない場合には、本来は極めて不自然な「説明的な台詞」が多くなるという危険があるわけであるが、この作品ではメアリーアン・ピーターソンという女性心理学者とその息子ジェイコブ(この名はA.ライン監督の映画『ジェイコブス・ラダー』を想起させる。これもまた臨死体験を描いた作品だ。)という「聞き役」を用意して、各研究者は主として彼等向かって自分の見解なりなんなりを語って聞かせる、という形で、そういうことを回避しようとしてはいるのだけれど、結局のところこれも非常に作為的な記述法なのであって、残念ながらやはり不自然な感じがすることは否めない。私としては士郎正宗のコミック『攻殻機動隊』(講談社)におけるようなあらゆる説明事項の欄外への書き込みというのが最も自然なような気がするし、小説であればW.ギブソンのように全然説明しないで強引に最後までひっぱってしまうとか、あるいは物語の流れからどうしても必要な科学知識に関してはあくまでも最小限を欄外なり後ろなりに注としてまとめる位にしておけばよかったように思う。
また、本書全体を要約するならば、結局のところ、「神」を作ろうとしたんだけれど元々存在している神にはかなわなかった、というだけのお話である。なんだかどこかのアニメーション作品にそっくりだな、と思ったのは私だけではないだろう(宮崎駿だの庵野秀明だの、ってことです。作品名は挙げるまでもないでしょう。)。もう一つ、月の光から力を得る巫女、というモチーフも古典的かつよく見られるもので、古くは『竹取物語』から、新しくは『セーラー・ムーン』まで綿々とつながるわけで、今更何を、という感じがする。
さらに付け加えるならば、科学者たちがあまりにも善悪二つに類型化されすぎている。要は広沢亨・加賀彗樹・北川が悪の側、その他が善の側に立つわけだけれど、こういう二分法は余りにも陳腐であるし、悪の側の人々が余りにも馬鹿っぽく描かれているためか、瀬名がおそらく表現することを意図したと思われるマッド・サイエンティストの怖さのようなものを全く感じさせない。また、登場する研究者の数がやけに少ないように感じたのだが、この辺りは作家の力量の限界だろうか。アシスタント的な人々が登場人物の周辺にもっとたくさんいてもいいはずだ。なんだかずいぶんと人口密度の稀薄な研究機関であるように感じられた。
ついでながら、広沢と船笠鏡子を巡る一連のポルノグラフィックな描写、及び孝岡の出生の秘密や同性愛者の息子との相克・和解を巡る挿話は必ずしも物語に不可欠なものとは考えられない。「エンターテイメント小説なのだからそういうのも入れないと」、なんて考えたのだろうけれど、それはちょっと読者を馬鹿にしていないだろうか。
すなわち、私見では、J.D.ワトソンの『二重らせん』(講談社文庫)のような科学ドキュメンタリーですらあれだけ感動的かつ啓発的なのだから、せっかく参考文献もきっちりつけて、これだけ様々な最新の科学理論という豪華な道具立てを揃えた以上は、若干のフィクションを加えた科学ノンフィクション作品に仕上げることも出来たのではないかと思う。本書の中で最も面白かったのは上巻の最後の方で、ここでは脳の分子生物学的研究の最新成果によって「臨死体験」及び「エイリアン・アブダクション」を説明しようという試みがなされてきたことが、孝岡の「エイリアン・アブダクション」体験とその分析という形である種ドキュメンタリー風に描かれているのだが、実に細かい記述で思わず惹きつけられた。科学者がそれこそ何かを「創発」するに至るプロセスはいつの時代においても普遍的に感動的な物語として描くことが可能なのではないかと思う。本書をへんてこりんなアンチ科学や、良くない意味でのオカルト色で染め上げる必要はなかったように思う。正直言って、この小説はここで終わっても別に良かったわけで、下巻は付け足しに過ぎないのではないだろうか。実際、このあとの展開は上巻を終えた時点で大体見えている。
さらにまた、本書の最後の方での孝岡による人類の「進化」と「神」を巡るいささか形而上学的な弁神論的考察はさほど新鮮なものではない。大風呂敷を広げるタイプの動物行動学者や社会生物学者がこうした議論を盛んにやってきたのは周知の通りだが、正直言って地に足のつかない議論である場合がほとんどである。上巻後半における分子生物学のような厳密な科学による分析の方がはるかに説得力を持っているように思うのだがいかがだろうか。少なくとも、どうせやるのなら宗教に関する人類学的な研究を取り込まねばならなかったように思う。本書においてこれが欠けているのは誠に致命的である。
ちなみに、最近、某TVアニメを見ていた多数の人々(子供を中心とした老若男女)が「ひきつけ」のような症状を起こして病院にかつぎ込まれるという事件が出来したが(12/16)、本書は図らずもその予言となってしまった。上巻p.414には「光の明滅が引き金となる」「反射てんかん」という記述が見えるからだ。偶然にしては、出来過ぎている。今日の世の中の在り方を如実に示しているのかも知れない。
最後に細かいミスを指摘して終えたい。 「左足がブレーキペダルから滑り落ちる。」(上巻p.43)→「右足」が正しい。 「第一研究施設は大脳の右半球、第二研究施設は左半球だろうか」(上巻p.72)→逆でしょう。 「三月の記録だ。」(上巻p.217)→メアリーの赴任は昨年4月以降のことである。 「体型的に解析する」(上巻p.363)→「体系的」でしょう。以上。(1997/12/23。同日、ヴァージョン・アップ。)