笠井潔著『三匹の猿』講談社文庫、1999.8(1995)

出版されていることも知らなかった作品の文庫化。元本はベネッセから出ていたらしいけれど、現物を書店で見たことがない。しかし、良く出来た作品。『哲学者の密室』辺りから思想小説的なミステリーを書き続けているかと思いきや、このような純エンターテイメント作品も執筆していたとは。タマネギの皮をむくように次々と新しい事実が現れる後半部は圧巻である。最後までどんでん返しが続くのだけれど、これこそまさにミステリーの醍醐味と言えるだろう。さすがです。作風はハード・ボイルド。主人公である私立探偵・飛鳥井史郎は20年に及ぶアメリカ生活の後、帰国し、東京で探偵業を営んでいるという設定なのだけれど、現象学的推理を得意技とする矢吹駆とは全く異なった人物造形に驚かされる。まあ、両者に共通する点は、最悪の事態を防ぐ、という事件への積極的「投企」を試みるのだけれど(ちなみに矢吹はそれを「戦略的傍観」という形で行ったりもする。)、結局事件に巻き込まれてしまい、かえって問題を大きくしてしまったり、何の役にもたたなかったり、という「内心忸怩たる」という形で結末を迎える、という事だろうか。本書でも、「女子高生コンクリート詰め殺人事件」に関する言及が主調低音のように常時鳴り響いているのだけれど、新聞でそうした記事を読んでいる我々も、実のところ「既に起きたこと」のみならず「これからも起きるだろう事」に対して極めて無力なのが現実なのであって、本書からは笠井のみならず現代知識人の多くが共有しているだろうそうした諦念を感じ取ることも可能かも知れない。それはそうと、本書の帯のコピーを書いている綾辻行人は何時になったら新作を発表するのだろうか?

J.P.Hogan著、大島豊訳『仮想空間計画』創元SF文庫、1999.7(1995)

原題はRealtime Interrupt。仮想空間テーマの傑作長編である。現実と見分けの付かない仮想現実(矛盾した表現だけれど。)を扱った作家として、P.K.Dickという先駆者がいるわけだけれど、Dickが本当に見分けが付かない結末(と言えるかどうかすら怪しい)を迎える作品を書き続けていたのに対し、近年のこの領域の作品群は、基本的に現実と仮想現実をきっちり分けていることが、興味深い。だから詰まらない、というようなことは決してなくて、本作品もHoganの人工知能研究やVR技術への造詣の深さを示す好篇である。主人公はアイルランド生まれでアメリカ在住の天才的人工知能研究者なのだけれど、Hogan自身父親がアイルランド人ということもあってか、「アイルランド人魂」なりなんなりを思い入れたっぷりに書いている。こういうディテール乃至隠し味がないと、平板な作品に堕してしまいますね。国際(あるいは異星人間の)政治がらみの権謀術数ネタを書かせたら天下一品の同作者だけれど、今回はむしろ社内政治ないし企業間政治位(軍がそれなりに介入しはするのだけれど、軍事目的で利用しようという意図はない、という描かれ方になっている)に収まっているとはいえ、決して単なる「発明・発見」モノには終わらせることなく、面白い物語に仕立て上げている。やや食傷気味の感も否めないけれど、映画The Matrixと併せてお読みになると効果倍増かも知れません。(1999/10/28)

G.Bear著、小野田和子訳『凍月』ハヤカワ文庫、1998.8(1990)

一連の<ナノテク/量子論理>シリーズの中にあって、いわば「つなぎ」のような小編。同シリーズのうち現時点で邦訳の存在する『女王天使』(原題Queen of Angelsからすると『天使の女王』の方がいいような気がする。)、『火星転移』という分厚くて、しかもとんでもなく中身の濃い作品群とは随分趣を異にする。本人による日本語版前書きによると、本書は名指しは避けてはいるものの明らかに「サイエントロジー」と考えてよい(山岸真の「解説」でははっきりと名指しされている。)宗教集団に対する批判となっているとのこと。曰く、「この集団はまさに、権力を手にしてはならない、いわば“あやまった秩序”の代表選手」(p.12)であるそうだ。ただ、本書で描かれる「サイエントロジー」をモデルにした教団(「ロゴロジー」と名づけられている。)なりその創始者の描写は単なる「揶揄」に過ぎず、余り深い批判になっていない。そういうものが浸透してしまう条件なり状況なりというものについて、もう一つ深い洞察が必要ではないかと考えるのである。京極夏彦辺りの方がその点は遙かに鋭いと思うのだが…。

半村良著『産霊山秘録』ハルキ文庫、1999.10(1973)

第1回泉鏡花賞に輝く伝奇ロマンの傑作。戦国期から1970年頃までの日本を舞台に、様々な歴史的事件における「“ヒ”一族」の暗躍を描く。どうも、戦国期から明治維新までを描いた部分が余りにも面白いせいか、第二次世界大戦と大戦後を描いた最後の二篇の何とも言えない物足りなさが気になってしまった。戦国期から江戸初期、さらに明治維新期については、それこそ歴史上のきわめて重要な人物が主役級になっているのだけれど、最後の二篇はどう見てもそんなに歴史上と思われる重要な人物は登場しない。精々一介の市民プラスアルファ程度の人々なのだ。それまでの流れを引き継ぐためには、東条英機なり昭和天皇なり佐藤栄作なりを登場させれば良かったのではないか、とすら思う。しかし、そうしなかったのには実は深い訳があるのかも知れない。つまり、歴史は個人によって動かされることはない、という、いわば今世紀に普及したアンチ・ロマン主義史観を、作品の叙述に投影した、と考えることも出来るのである。ただし、そうなると、近世についても歴史上の人物ではなく、一般の、それこそ「常民」なりなんなりを主役にすべきではなかったのでは、と考えてしまうのだが、勿論そんなことをしたら、エンターテイメント作品にならない訳で、そうか、これは妥協の産物なのだな、などと、妙に納得させられてしまった。でも、それならやはり近年の話はもっと国内政治なり国際政治なりに肉薄すべきだったのでは、と、また出発点に戻ってしまうのである。

山田正紀著『人喰いの時代』ハルキ文庫、1999.2(1988)

山田正紀のミステリー作品第1弾。文庫化はこれが初、ということになるんだろうか。第2作『ブラックスワン』は講談社文庫に入っているので入手しやすかったのだが、こちらは確かに見たことがなかった。いわば、幻の傑作。そう、これは本当に傑作なのだ。昭和10年頃の北海道のある町を舞台にした連作ミステリー短編の体裁をとっているのだが、最初の数作を読んだ段階で「何だつまらん!」といって投げ捨てるようなことは決してしないで欲しい。確かに、最初の方の短編はさほど完成度が高いとは思えない。しかし、それは計算の上のことなのだ。とりあえず、一旦読み始めたからには、最後まで読まれることをお薦めする。それ以上のことは、ここでは一切語らないことにしたい。(1999/11/07)