貴志祐介著『クリムゾンの迷宮』角川ホラー文庫、1999.4

映画『黒い家』が好評の貴志の文庫書き下ろし作品。まずタイトルが凄いですね。『クリムゾン・キングの宮殿』をもろにパロっている。物語の舞台は火星に似た地球のどこか。但し、火星に行ったことのある人間は今のところ存在しないので、どこまで似ているのかは不明。突然当該地に放り出された主人公を含む9人の男女は、意図不明のサヴァイヴァル・ゲームに否応なしに参加することになる。主宰者側からのルール説明その他は、携帯ゲーム機を通じて参加者に伝えられるのだけれど、これってどう考えても「ゲームボーイ・カラー」としか考えられない。赤外線通信機能を備えているし、電池の寿命にしてもね。それはさておき、この小説を支えているのは、某地の生態系に関する膨大な知識である。『黒い家』でも、主人公は元昆虫少年で、京大で生物学を専攻していた、という設定になっていたけれど、京大経済学部でどうやらゲーム理論を学んでいたらしい(外れていたらごめんなさい。)この著者は生物学・動物行動学などにも相当造詣が深いらしい。私はプロットよりもディテイルを読み込む方が好きなので、こういう作風は大いに歓迎する。マニアック、と言われれば元も子もないのだけれど。ただ、エンディングはやや拍子抜け。真ん中辺りで主人公は重要なアイテムとして登場する「ゲームブック」の真のエンディングについて、「PKディック風の目眩く現実崩壊の後、…」と語るのだけれど、本作はやや尻切れトンボ気味、かなり予定調和的に終わる。もう一ひねり欲しかった、というのが、率直な感想である。

森博嗣著『詩的私的ジャック Jack The Poetical Private』講談社文庫、1999.11(1997)

シリーズ第4作の文庫化。11月末の調査中に読んだのだけれど、自動車で出かけたため、電車で出た時のような訳にはいかず、寝る前に1時間ずつ読んだためと、毎日人々からさまざまな話を聴いて頭が混乱している関係から、何だか物凄く消耗させられてしまった。周到に張られている伏線を忘れてしまうのだ。やはりミステリはどんなに長いものでも一日二日で読み切るに限るものだとつくづく実感する。まあ、それはさておき、本作で森はまたまた密室殺人を扱う。ミステリの王道であり、もうネタはなくなっているのではないか、とすら思われる密室ものだけれど、本作で示されたような、警察もよく知らないかも知れない最新テクノロジーを用いた密室など幾らでも考えられるのだから、大学なり何なりの研究機関ものミステリは無限の可能性をもっている、とも言えるのである。それで、大学なり何なりを舞台にしているのかも知れない。作中で主人公・犀川助教授の勤める大学を中退することになるロック歌手・結城稔の楽曲の歌詞が出てくるのだけれど、これがなかなか素敵なもので、思わずメロディをつけたくなってしまった。森は某国立大学工学部助教授の肩書きを持っている訳だけれど、詩も書けてしまうんですね。素晴らしき多芸多才。ひょっとしたら、かつてはバンドを組んでいた、なんてこともあったりして。一度お目にかかりたい人物の一人である。(1999/12/08)

麻耶雄嵩著『夏と冬の奏鳴曲(ソナタ) PARZIVAL』講談社文庫、1998.8(1993)

『翼ある闇−メルカトル鮎最後の事件− MESSIAH』(講談社文庫、1996(1991))に続く麻耶雄嵩の長編第2作の文庫化。約700頁の超大作にして、問題作である。噂には聞いていたけれど、なるほどこれは凄まじい。読者は『ドグラマグラ』や『匣の中の失楽』の読後と同じような思考の迷宮に投げ出されることになる。第一作では音楽が基本モチーフになっていたけれど、本書はそのタイトルとは裏腹に、絵画がそれに取って代わっている。さらに細かく言うなら、ここで扱われているのはキュビズムであり、その理念その他を巡る対話が延々と続く。ここでは、本作品の構成そのものが、ある意味でキュビズム的である、ということを述べておきたい。何しろ難解な作品で、とても一読しただけでは全てを理解することなど出来ない。最後に登場する銘探偵・メルカトル鮎の「謎解き」にしても、かえって話を拗らせてしまっているようにすら思われた。ということで、「続編」ないしは「解決編」とされる第三作へ進む。

麻耶雄嵩著『痾』講談社文庫、1999.1(1995)

法月綸太郎の解説では一応前著の「「解決編」に相当する物語」(p.402)であるらしきことが書かれているけれど(ちなみに、断定はしていない。)、どこが解決編なんだかさっぱり分からなかった。本書は前著で描かれた和音島での事件の「後日談」なのだけれど、両著に共通する主人公・如月烏有(きさらぎ・うゆう)の住んでいる世界は、烏有の事件後に生じた記憶喪失によってその構成を根本的に変化させてしまっているかに見えるのである。構成が変わってしまった世界からいくら過去を探ろうとしても、その過去自体も構成を変えてしまっているのだから、それは前著で描かれた世界における一連の事件の解決などには決してなりはしないように思うのだ。とはいえ、当事者たちが保持する記憶を含めた世界そのものが変わってしまったこと自体についての情報を、当事者が与えられていない場合には、現在いる世界が過去にいた世界と異なることを証明することどころか、気づくことすら出来ないというのも事実だろう。ここで読者は「PKディック的」な問題にぶちあたってしまうことになる。そう、「現実とはそもそも何なのか?」という問題である。ディックはこの問題に対して、一貫して現実崩壊(「脱コード化」と言ってもいいかも知れない。)を描き続けることで応えていたわけだけれど、私見するところ麻耶の試みは、これまでの一般のミステリ作品が基本的にがっちりとしたものとして仮構された「現実」の中で、その「現実」内において論理的整合性を持った解決を与えてきたことに対する異議申し立てなのであり、それでは最早その絶対性についての神話が解体し、そのために崩壊してしまった、あるいはそのことを読者に喚起すべく作品内世界において作為的に崩壊させた現実の中でいかなるミステリが可能なのか、という問いを念頭に置きつつ、それを実践する、ということなのだろう。ああ、めんどくさい。何でこんな事をしなくちゃいけないんだ、と思いつつ、私の好きなのは結局こういういわば「ポスト・モダン文学」と呼びうるものなんだな、ということを再認識したのであった。

麻耶雄嵩著『あいにくの雨で THE CONCRETE WALL』講談社文庫、1999.5(1996)

長編第4作。前2作との接点は主人公が如月烏有の弟らしき高校生・如月祐今(うこん)である、という点のみ。メルカトル鮎も登場しない。さて、本作の最大の特徴は、「ごく普通のミステリ作品」として読めてしまう点だろう。勿論、とても良く出来た作品で、読者の期待を裏切ることはないのだけれど、前2著を読んできたものにとっては、別の意味で意表をつかれることになる。この作品に関しては、他に書き記すことは特にない。やはり、次著の習作である、という評価しか出来ないように思う。

麻耶雄嵩著『鴉』幻冬舎推理叢書、1999.4(1997)

新書だけれど、上とのつながりでここに入れる。まずは最大限の賛辞を述べたい。本書は全くもって完璧な作品だと思う。舞台は地図にも記されていない外部との接触を持たない日本国内のとある山村。本作において麻耶は五行思想と錬金術を大フィーチュアしつつ、一つの社会を見事に構築している。同社会が双分制をとっていることも面白いし、それはさておき「現人神」として描かれた最高権力者=「大鏡様」を支える知=権力構造の描き方も卓抜である。本書を読むと小野不由美の『屍鬼』にしても、平野啓一郎の『日蝕』にしても、本作がなければ成立しなかったのではないかとさえ思えてくる。特に後者に対する影響は顕著であるようで、U.エーコをベースにしているのだと勘違いしていたのだけれど、実は同じ京都大学出身である麻耶の影響下にあったのだね。意外な発見だった。ミステリとしても秀逸。密室トリック、叙述トリックその他の随所に散りばめられた仕掛け群は誠に見事なものだし、最後の最後まで続くめくるめくどんでん返しの応酬には圧倒される。第3作までのメタ&アンチ・ミステリ的なテイストも加味されていて、それを期待した読者をも決して裏切らない。成る程、東京創元社の1998年度本格ミステリ・ベスト1、というのも頷ける。繰り返すが、全く完璧な作品である。(1999/12/20)