岡田斗司夫著『オタク学入門 ―東大「オタク文化論ゼミ」公認テキスト―』新潮OH文庫、2000.10(1996)
「日本を代表するオタキング」こと岡田斗司夫著の手による東京大学で実際に用いられているというテキストの文庫化である。電車の中で読むのに適した大変面白い本なのだが(悪く言えばただそれだけのものなのだが…。)、「オタク学」の「学」の字は省くべき内容。つまりは、私にとっては、これは単に「オタク入門」としか読み得ない。私見では、一億総オタク、乃至は前人類総オタクになるのは別に構わないのだが、東京大学というアカデミズムの場所で、全く学問的でないゼミナールが行なわれているらしいことには、同大学が国立大学であることも併せて、きちんと批判しておきたい。要するに、自身がオタクであるにも関わらず、オタク学を構築することは困難、ということでもある。ここで行なわれているのは、単なるオタクの自己肯定に過ぎない。今後は自らの精神構造なりを客体化することを第一の作業として開始しつつ、オタク一般に拡張する、というような形で、真の「オタク学」を目指して頂きたいと思う。もっと深い突っ込みを入れるなら、自身で「自分はオタクである」と述べつつオタクについて語るのは、完全極まりないトートロジーである。以上。
山田正紀著『恍惚病棟』ハルキ文庫、1999.4(1996)
痴呆性老人病棟を舞台とする本格ミステリ。本人はあとがきでかなり自嘲気味に本書について語っているが、極めて良く出来た作品である。やや論理的必然性を欠き、どう考えても初めから怪しい人物が犯人、という結論部の展開は確かに物足りないのだが、この後に書かれる一連のミステリ同様、斬新なアイディアを惜しみなく使用する山田氏の執筆態度は、尊敬に値する。凡百の職業作家なら、もっと出し惜しみするところだろう。終わり。(2000/12/19)
山田正紀著『謀殺のチェス・ゲーム』ハルキ文庫、1999.5(197?)
自衛隊所属の「新戦略専門家(ネオストラテジスト)」達、元新戦略専門家を抱え込んだ軍需企業、日本国内最大の暴力団その他が、北海道は奥尻島から沖縄県は宮古島までを縦断して繰り広げる、リアルタイムの権謀術数を描いた謀略アクション小説である。巧みなプロットもさることながら、本小説の最大の読み所は新戦略専門家達が駆使するゲーム理論に関する記述にある。初版刊行時の1970年代中盤という時期は、恐らくゲーム理論花盛り、という感じだったのだろうけれど、目新しいコンセプトを的確に吸収し、物語化する同氏の力量は、この当時から遺憾なく発揮されていたということになる。プロフェショナル中のプロフェッショナルの仕事を大いに堪能しよう。
森博嗣著『まどろみ消去 Missing under the Mistletoe』講談社文庫、2000.7(1997)
著者初の短編集。原本は講談社ノベルスから刊行されていて、一連の犀川創平・西之園萌絵シリーズに挟まれる形になっているけれど、ここに収められている11の小編は必ずしも同シリーズの系列に属するものではない。ここまでの5作品が徹底して密室トリックに拘った本格ものだったのに相反して、叙述トリックが多用されているのが印象的である。更に言えば、ラストにおかれた殆ど自伝なのではないかとも邪推してしまう「キシマ先生の静かな生活」はミステリですらない。同氏の作風の拡がりを示す、誠に芳醇な一冊である。
森博嗣著『幻惑の死と使途 Illusion acts like Magic』講談社文庫、2000.11(1997)
奇数章のみからなる長編本格ミステリ。偶数章は、次作『夏のレプリカ』において記述される。とは言え、このことに関しては、双方で描かれた事件が偶々(たまたま)同時期だったから、という説明がなされる。故に、両者は全く独立した作品で、どちらから読んでも、或いはどちらかのみを読んでも、特に問題はない。逆に言えば、そのこと――つまりは両者を完全に分離した作品にしてしまったこと――は大きな問題を含んでいて、現実には一方の事件に関する思考(推理を含む。)が、もう一方の事件に関する思考にも影響する筈なのであって、どうせやるならそこまで踏み込んで頂きたかった。このようなことを述べるのは、本書556頁で犀川創平が述べているように、例えば殺人犯の動機に関する解釈などというものは、「我々は、ただひたすら、自分たちの精神安定のために、自分たちを納得させてくれる都合の良い理屈を構築しているに過ぎません。殺人犯の動機なんて、事件に関係のない者のために用意された幻想です。」、ということになるらしいからである。ここで言われていることは、殺人や死体遺棄を含めた諸々の現象に関する解釈=推理とは、解釈者のおかれた環境や情況によって左右されることを免れないし、そのことを認めた上での最適な(ここには、〈誰にとって〉、というもう一つの問題があるのだが、面倒なので敷衍しない。)解釈のみが、我々の行ないうる最大限の事柄である、という意味内容を含んでいるだろう。西之園萌絵も犀川創平も、極めて頭の切換えが早い人物であるという設定だから良いのだ、という一言で一蹴されてしまいそうだが、最低限のリアリティを確保し得ていないミステリは、それだけで興醒めなのであることも忘れてはならない。これ位は許容範囲内だろうか?

まあ、それは兎も角、箱抜けマジシャンの草分け的存在であった初代・引田天功へのオマージュとも言える本作品は、誠に良く出来た密室トリックごり押しの本格ミステリである。(とは言え、のシリーズでは本作以降、「トリック」の扱いに大きな変化が生じることになる、ということも述べておきたい。)尚、カヴァーの写真と、冒頭の埴谷雄高『死霊』からの引用の対応関係もなかなかに爆笑ものである。ついでながら、二代目・引田天功を解説「魅力はミスディレクション」の執筆者として引っ張り出した講談社・文芸図書第三出版部の力業にも驚嘆した次第。(2000/12/21)

Mike Resnick著『キリンヤガ』ハヤカワ文庫、1999.5(1998)
驚異的な作品である。最早古典としての地位を与えられてしまったらしい本作は、シカゴ出身の同著者による、近未来〈ポスト・コロニアル〉SF。何しろ、発想が凄い。

舞台は22世紀の太陽系。色々な意味で絶滅寸前のケニアに住むキクユ族の一部は、あらゆる害悪をもたらし続けると彼等が考えるヨーロッパ文明(勿論全ての近代文明の発明は必ずしもヨーロッパ人の手によるものではないけれど、本書の語り手、後述のコリバに従って以下全ての近代文明を「ヨーロッパ」という語で表象する。)から離れ、自分達の「伝統」的生活様式が実践可能なユートピアを求めて小惑星に集団移住する。(移住の際の宇宙空間の移動や、小惑星にかつてのキクユ族の生息地を模して造られた居住地・キリンヤガの設計・施工・管理・保全は全てヨーロッパ人乃至ヨーロッパの技術によるものである。これがこの物語の最大の皮肉となっている。)こうして創り出された「ユートピア」を統轄し、キクユ族の「伝統文化」がヨーロッパ文明に冒されることから守ろうとする、祈祷師にしてキクユ族の民俗知識のただ一人の伝承者・コリバによって紡がれるこの物語は、次第にヨーロッパ文明に浸食され、ヨーロッパ化していく「真の」キクユ族の終焉を冷徹な眼で見据えつつ、描き出す。

ところで、この物語は実は既に現実のものである。例えば南米のネイティヴ・アメリカン居住地などでは、人工的に保護された区域内に、それこそ旧来の生活様式を守り続ける人々が存在する。これは、人類学を専攻する私のような者にとっては特に、真剣に考えるべき問題を孕んでいる。その問題とは、要するに、旧来の生活様式を守り続け、その社会成員としてのアイデンティティを貫き通すか、或いは別の社会の生活様式(近代テクノロジー、文字、その他)を取り入れ、当該社会の成員としてのアイデンティティを捨てるか、という二者択一にある。食糧の生産性や安定性、或いは医療の効率性や安全性などの点においては、近代テクノロジーに勝るものはないと思うのだが、問題はそれを受け入れることによって失われる、例えば〈キクユ族〉の一員として存在していること自体の持つ意味なのである。

ケンブリッジ大学を出、イェール大学で二つの博士号を取得したエリートという設定の主人公・コリバは、当然のことながら、上記のようなディレンマにぶち当たる。コリバの選んだ道は明快である。それは、頑なに前者の道を貫くことを自らに、そして一緒に移住したキクユ族の同胞達にも強要するということ。ちなみに、それを強要出来るのは彼が小惑星の軌道に変更を加えてキリンヤガの気象を思い通りに出来る、即ち住民の生殺与奪権と、外部世界についての情報を一手に握っていることによるのだが、これはコリバが、ポスト・コロニアル批評などで良く取り上げられるW.Shakespeare作の『テンペスト』におけるプロスペロー的立場にあることを意味する。

ヨーロッパ人にして入植者であるプロスペローを主人公とする『テンペスト』とは異なり、ヨーロッパで知識を得た植民地エリートを主人公とするこの物語においては、前述のようにして殆ど無理矢理に構築されたユートピアは、コリバの威信が失われることによっていとも簡単に崩壊する。即ち、物語は、キリンヤガがヨーロッパ化し、「真の」キクユ族の終焉を暗示して終わる。

この作品において、著者Resnickは、上記二者択一のどちらかが正しい、などということを安易に語ったりは決してしていない。それは、コリバが、キクユ族の「伝統」を守るべく孤独な闘争を続けながら、時折「私は正しいのだろうか?」的な自己懐疑を記述の中に挟んでいることからも伺い知ることが出来る。こうして、この誠に寓意に満ちた物語を、物語の当事者に、自らの行為についての悔恨や自嘲までも織り込みながら語らせる、というスタイルを採ることによって(殆ど離れ業である。)、あくまでも問題提起に徹したこの作者のポジションの取り方には共感する。それは、最終的には、例えばキクユ族が自ら決定すべき事柄であると、私個人は考えるからだ。(2001/01/09)

貴志祐介著『天使の囀り』角川ホラー文庫、2000.12(1998)
京都大学経済学部卒のエンターテインメント作家・貴志祐介による長編第3作の文庫化である。動物行動学乃至は社会生物学、或いは寄生虫学乃至は線虫学、更には神話学からインターネット文化論にまで及ぶ著者の博識ぶりが遺憾なく発揮され、しかもそれが巧みなストーリー・テリングと見事に調和して、近年のエンターテインメント作品としては出色の出来映えとなっている。本書は基本的に1990年代に流行した一連のバイオ・ホラーの系譜に位置付けられるのだが、例えばこの本の解説を書いている瀬名秀明のバイオ・ホラー小説(端的には『パラサイト・イヴ』です。)が、現実には絶対にあり得ない話である、という点でちっとも怖くも感慨深くも警鐘的でもないのに対し、本書に描かれているような、貴志の動物行動学に関する決して通俗的ではない知識に裏打ちされた、ある種の寄生虫が引き起こす惨事その他は、既に起きているかも知れない位の真実味を帯びたものである、という点でそれなりに恐ろしくもあり、感慨深くもあり、警鐘的でさえある。

ところで、動物行動学や寄生虫学の勉強にもなってしまう本書は、色々な意味で推薦したい書物であるのだが、惜しむらくは、参考文献リストが省略されている点である。私のように、〈あとがきから読み始める〉などという愚行を決して働かない読者も存在することも忘れないで欲しい。尚、作中にかなり怪しげな文化人類学者とその助手が登場するけれど、こんな人は私の周りにはおりませんので、ご安心の程。変な先入観を持たれてしまうと困るので、ここにはっきりと言明しておく。というのも、最近学生のリポートを大量に読んだのだが、彼女等がその読んだ本の内容を鵜呑みにしているケースが誠に多いのにショックを受けたからである。批判・批評精神を養って欲しいものだとつくづく思う次第。(2001/02/24)