篠田節子著『カノン』文芸春秋社、1996.4
『ハルモニア』の姉妹編である。こちらをあとに読んだため、本作の持つ希望に満ちた結末は凄惨な『ハルモニア』の結末から受けた暗澹たる気分を若干なりとも和らげてくれることになった。この二つの作品は時間的に連続したものではないし、登場人物や舞台装置にも重なるところはないので、どちらを先に読んでもよく、さらに言うならある意味で両者は対位法的な関係にあることは『ハルモニア』の書評において述べた通りである。
主人公は39歳の元々はチェリスト志望であった女性音楽教師・瑞穂である。約20年前に別れた数学科の学生(どう考えても二人が在籍していたのは東京学芸大学である。)であり天才的な音楽的才能を持つヴァイオリニスト・康臣が服毒自殺をとげ、彼女に残したカセットテープを巡って様々な事件が引き起こされる。
個人的には、本作品を読む内にまず第一に興味深く思ったのは、上記の如く康臣が数学科に所属していること、そして彼が自身が主宰する同人誌での論評の中でK.ゲーデルとJ.S.バッハを結びつけようとしていることである。どうみてもD.R.ホフシュタッターの『ゲーデル・エッシャー・バッハ』(白揚社。必読書です。)が隠れモチーフとなっているのだ。
話を戻そう。康臣がカセットテープを通して瑞穂に託したのは、彼の「決して張りぼてでない」、「魂の内に構築した世界」において奏でられる、例えば「幾何学的な完全な美」(以上、pp.282-3より。)を持つというバッハの音楽の体現する音楽のイデア(=ハルモニア)とでも言うようなものを表出するような最後のヴァイオリン演奏であり、それは同時に瑞穂が良き教師、良き母親、あるいは良き妻を演じることによって封印してきた音楽的才能を再度発現すべし、というメッセージであったのである。この辺りの、瑞穂の頭の中に鳴り響く音楽、というイメージはまさに頭の中で考えられた抽象的かつ観念的なバッハのポリフォニックな音楽を見事に表現している。『ハルモニア』におけるルー・メイ・ネルソンのチェロと同様に、ここではロマン主義的な、康臣のかつての恋人である岡宏子の表現を借りれば「胸を打つような演奏」、あるいは「高音のすすり泣くような音とか、低い音で包み込んでくれるような……そう、涙や体温を持って心に響いてくる音」(p.277)は否定されている。そして、ここで肯定された観念的かつ理想的な音楽こそが「表面的な愛情を越えて、人の心の深部に訴えかけてくる無限の感情の広がりを持」ち、「人を癒し苦悩から救う力さえ帯びている。」(p.341)という、恐らく篠田自身の音楽というものに対する見解の表明には全面的に賛同する。
さらには、凡庸な音楽的感性しか持たないという設定の岡宏子は「精神遅滞児施設」に勤めていることになっているのだが、ここに込められた皮肉は強烈なもので、これは『ハルモニア』において障害者の社会復帰施設「泉の里」の施設長・中沢が掲げるような、「障害者の自立・社会復帰」(『ハルモニア』p.23)という、現実には決してうまくいっているとは言い難いいわば仮初めの目標の持つ半ば偽善的な福祉の精神に対するあからさまな揶揄ともとれる。
勿論、だからといってそういうものを全面的に否定しているわけではないことは、『ハルモニア』の結末からも読みとれることであることを断っておきたい。私見では両者の結末が一見相矛盾するかに見えることこそが重要なのであって、才能の重視か協調性の重視かという教育を行う上での根本問題については教育学部を卒業した篠田自身も恐らく逡巡し続けているはずであるし、それだからこそいずれかの立場のみを肯定するような安易な結論に行き着くことはせず、天才的な能力を持つ者の辿る人生航路についての両極端な結末を持つ物語を書くことで、こうした事柄についての重大な問題提起を行ったのだと解釈したいと思う。
なお、ラスト近くの穂高登山については、岡宏子がかつて参加していたという左翼的な「活動」とも相まって、高村薫の『マークスの山』(早川書房)を思わせるものだし、もう一つ、山を登ることによる魂の浄化・救済というモチーフは同じく篠田による『ゴサインタン』にも通じるものであることを指摘しておきたい。(1997/12/28)