田口ランディ著『コンセント』幻冬舎、2000.6
成程。誠に壮大なヴィジョン(端的に言えば、自己意識の拡張による世界統一意識体との一体化。更には「全ての生命=自己も含む他者はいずれ死を迎える」ことを達観することによって起こる死への欲動=タナトスの発動と、それと同時並行して引き起こされる生への欲動=エロスの発動。ちなみに、以上の語は本書には出てきません。私がたった今アド・リビウムに持ち出したものです。)を掲げているのにも関わらず妙にチンマリとした話に終始している点が気になったのだが(要は主人公の家庭崩壊と男性遍歴を綴ったものなんだもの。)、大変面白かった。インターネット上のコラムニストとして著名であったこの著者の最初の小説である本作は、基本的には「引きこもり」生活を続けたあげく死んでいった40歳男性の10歳年下の妹・朝倉ユキが(「麻倉」ではないことに注意せよ。但し、読み方は同じ。えっ、何のことだか分からないって?)、幻臭や幻視その他に悩まされたあげく(「あげく」が続いて申し訳ない。)、シャマン(=「コンセント」。この点については後述。)として覚醒し、巫業を営むに至る迄のプロセスを描いたもの。その読後感は、例えば類似のテーマを扱ったと言って良いだろう篠田節子の『聖域』や『ハルモニア』のような絶望と諦観に満ちたものでは全くなく、むしろ村上龍の『イビサ』と同じような爽快感を伴うものである。
さて、本作品の目玉は何と言ってもシャマン=コンセント説の提示である。同説は、作中に登場する人類学を専攻し、宮古島でフィールド・ワークをこなしている大学院生という設定らしい本田律子によって語られるのだが(pp.168-169)、要するにシャマンとは共同体乃至その成員に「生命エネルギー」を供給する装置なのだ、ということになる。本田律子は基本的に平凡な(「お馬鹿な」、とも言い得る。)研究者として描かれているので、「生命エネルギー」だのアカシック・リコードだのの存在を比喩ではなく実在として語ってしまっているのだけれど(田口ランディ自身がそんなものの実在をこれっぽっちも認めていないだろうことは、本書が基本的に朝倉ユキが自分で打ち込んだ自伝的手記、というメタ・フィクショナルな構造を持つことからも分かる。要は、上記の世界との同一化体験云々などというのも、朝倉ユキの単なる妄想に過ぎない、とも言い得るのだ。)、それらについてあくまでも比喩として概念設定する限りにおいて、上記のシャマン=コンセント説は、私には非常に妥当なものに思える。ちなみに、本書でも記述されている通り、英単語の consent には「電力供給源」という意味はなく、語源となったラテン語単語は「共感」を意味する(別にこんなことは明記する必要はないのだけれど、consent は「了解」などと訳される語で、例えば「インフォームド・コンセント」という言葉に使われている。)。この辺り、なかなかディープでしょう?
などと思って良く良く見たら、表紙の英語表記は concent になっている。(ちなみにこれだと語源となったラテン語の元々の意味は「中心に集まる」である。尚、concent などという語は私の使っている英和辞典には出ていない。これが例えば concentrate という語の語根であることは周知の通り。)何だこりゃ?装丁者のミスか、或いは著者の勘違いか?もう一つ考えられるのは、先にも述べたように本田律子が設定上基本的に「お馬鹿」な研究者なために、いい加減な知識をうっかり開陳してしまった、ということ。ふむふむ、これが一番私には腑に落ちる(もう一つ、先述の通りこの手記=『コンセント』の作者である朝倉ユキがお馬鹿である、ということを示唆するため、という可能性も指摘しておきたい。そうすると、朝倉ユキが本田律子をお馬鹿に描きたかった、というのも考えられる。うーん。まだまだ出てきそう。メタ・フィクションを読み解くのは誠に難しい。)。そう、本書において本田律子が述べているシャマニズムに関する言及には、上述のシャマン=コンセント説は良いとしても(というより、素晴らしい。)、何とも初歩的な誤りが散見できるのだ。著者はこれを恐らく意図的に行なっているので、二重に問題なのだけれど(とは言え、あとがきで「作中で本田律子に語らせていることには実は間違いが多いです。」などと述べるのも野暮だからね。また、いま一つの可能性として、元ネタが間違っている可能性も捨て切れないのだが、小説という体裁上、参考文献を明示する、というのも同じく野暮だからね。)、取り敢えず、本欄をお読みになって下さっている方々は、眉に唾を付けつつ同書を疑い深く、注意深くお読みになられることをお奨めする。(2001/02/12)