Lars von Trier監督作品 DOGVILLE
Breaking the Waves(1996。邦題『奇跡の海』)及びDancer in the Dark(2000)を撮ったDenmarkはCopenhagen生まれの映画監督Lars von Trierによる前2作に勝るとも劣らない<驚嘆すべき>作品の登場。
本来徹底したリアリズムを追求しようという運動だったのではないかと思うdogma95については前にも少し書いたのだが、この映画においてもまた、Dancer in the Dark同様にリアリズムの追求などということは全く無視されている。映画の舞台はGeorgetownという町が近い、ということが何度も示唆されるので恐らくアメリカ合州国はDelaware州に位置するのだろう山村Dogville。この村全体が、撮影の行なわれたどこかの倉庫らしき場所にセットとして組まれているのだが、このセット、各世帯の外壁もきちんと作られていないし、そこにある茂みや畑といった村の構成要素は実体としておかれておらず、例えば結構重要な役割を果たす番犬さえもが単に「DOG」と床に書かれているというような極限的なほどミニマルなもの。まあ、オペラの舞台装置を思い浮かべていただければ良いのだが、これを3時間にも及ぶ長編映画のセットとして使った例は、これまでになかったのではないか、とさえ思う。恐ろしく実験的である。(ちなみにこのセットの全貌は公式サイトでも見られるのでご確認の程。)
物語やそれを通して示される思想に至っては、ここまでやって良いのだろうか、というほど過激にして辛辣なもの。ギャングに追われているとおぼしき美女Grace(Nicole Kidmanが演じる。)がある日突然村に姿を現わし、村人は初めのうち<素朴な田舎者>的「善意」をもって彼女を匿(かくま)うかに見えたのだが、やがてそれは反転し、彼女はあらゆる意味で村の「奴隷」となる。そして、驚くべき結末が…。
村のロケーションがアメリカ合州国だからといって、そしてまたこの映画の持つ衝撃的なラスト、及び作られた時期が余りにもアメリカ合州国その他によるイラク侵攻と重なりすぎるからといって、もう一つ言えばエンディング・テーマがDavid Bowieのあの曲だからといって、この映画を単なる「傲慢なるアメリカ批判」としてしまうのは矮小化に過ぎないだろう。作中で小説の構想を語るTom Edison Jr.(この名前がなかなか意味深なのだが…。)がいみじくも述べているように、この映画はより「普遍」的な意味での、人間が持つ「業」なり「原罪」なりを示すべく製作されたものだと考えたい。この映画が示しているのは要するに、主人公Graceがラスト近くで述べる通り、誰しもがこの映画で描かれるような状況に置かれた場合、この村人のように、あるいはまた彼女自身のように振る舞ってしまう「弱い」存在なのだ、というメッセージである、と思う。
前2作ではそれぞれ病床の夫が生還、あるいは息子が遺伝性の眼疾から解放される、という形でどうしようもなく絶望的な映画にある種のカタルシスを促す要素を与えた同監督だけれど、今回は違う。そこにあるのはどん底の絶望と諦観のみ。「ここまで人間性なりなんなりの存在を否定して良いのか?」という批判は当然出るだろうけれど、私個人としてはこの映画が語っていることを、21世紀初頭にある映画監督が行き着いた一つの結論として、素直に受け止めたいと思う。以上。 (2004/03/17)