望月峯太郎著『ドラゴンヘッド 1-10』講談社、1995-2000
本欄へのコミックの登場は2本目となる。以前予告した『シャーマンキング』への言及はキリの良い第10巻が出るこの夏辺りに行いたいと思う。御期待下さい。
さて、周知の通り本作品はこの春第10巻を以て完結し、つい先頃ナンとか賞を受賞した。望月はこの作品において、執筆開始(1994年後半)直後に現実世界で起きた二つの大事件である神戸の震災、オウム真理教の事件などを念頭に置きつつ、劇画世界においては大災害に見舞われた今日の日本(静岡県以東)を舞台に、やや在り来たりとも言える終末論的モチーフを繰り出しつつ(ところで、『チョコレート・パニック』にせよ、『アキラ』にせよ、『風の谷のナウシカ』にせよ、『新世紀エヴァンゲリオン』にせよ、私をして「傑作」と言わしめる劇画は常に終末論的である。一体何故なんだろう?)、とは言え「恐怖」なるものについてのそれなりに徹底的な掘り下げを行う事によって、一定の文学作品的水準に到達することに成功しているように思う(とは言え、SF作品としては、J.ティプトリーJrの珠玉の短編を読んだ直後では余りにもインパクトに欠ける。)。この辺りの一連の考察を行うに当たって、著者は恐らくは笠井潔の評論を援用しているのではないかと思う。言うまでもなく、『テロルの現象学』の事である。
それはおくとして、個人的には、第9巻から登場する「恐怖ジャンキー」達からなる「地下の王国」と、その支配者である「先生」(この人物のスキンヘッド、髭なしという姿態は明らかにオウム真理教教祖の陰画である。)の一連の描写を興味深くよんだ(この辺から主人公である青木照と瀬戸憧子の存在なんてどうでも良くなってしまった。とは言え、ラストにおける青木照によるこの世界乃至は人間存在の全面肯定とも取れる認識への到達を示唆するモノローグは、『エヴァ』における碇シンジによる世界そのものへの全面的拒否とも取れるものを乗り越えようとするものとして興味深く読ませて貰った。とは言え、本作品全体に通底し、最終巻で全貌を現すある種のヒューマニズムの表出が、やや感傷に流れ過ぎていることは否めない。)。これは明らかにJ.コンラッドの『闇の奥』なりF.F.コッポラのApocalypse Nowを意識したもの。「先生」の吐く、「ここにやって来た人間なら…、お前も…、つくづく知っているはずだ…。世界は恐怖でいっぱいだ。そこで正気を保つには己の心の暗黒を直視するしかない…。しかしそれは同時に恐ろしい暗黒の視線に身も心もさらし恐怖し続けることだということをな…。」(9、1999:pp.142-3)なんていう台詞は、『闇の奥』における「君たちにはわからない。どうしてわかるものか。堅い動かない舗道を踏み、いま励ましてくれているかと思うと、はやもうつっかかってくるあの親切な隣人たちに囲まれ、いわゆる肉屋とお巡査(ルビ:まわり)さんとの間をすまして歩いている君たち、そして醜聞と絞首台と癲狂院(ルビ:てんきょういん)との神聖な恐怖の中で暮している君たちに、−どうしてあの原始さながらの土地を考えることができてたまるものか−そこはただ自由奔放な人間の足だけが、孤独と静寂とを越えて彷徨いこむ国なのだ、−完全な孤独、お巡査さん一人いない孤独−完全な静寂、世間の輿論とやらを囁いてくれるcp親切な隣人の声など、一つとして聞かれない静寂、−お巡査(ルビ:まわり)さんも隣人も、それはほんのなんでもないものかもしれぬ。だが、これが文明と原始との大きなちがいなのだ。それらがいなくなれば、あとはめいめい生れながらの自分の力、自身ひとりの誠実さに頼るほかなんにもないのだ。」(中野好夫訳、岩波文庫、1958(1899):pp.100-1。ちなみにこんな枝葉末節をすぐに引用出来るのは授業で使っているからです。でも、有名な一節ではあります。)と見事なまでに響き合うものだ。
ところで、「恐怖ジャンキー」に引きつけて考えると、タイトルのローマ字表記は、dragonheadではなく、drugonheadだったら面白かったのに、と思う。分解すると、drug on head。えっ、クダらないって?しかし、更に余談だけれど、これを読んでる最中に震度4の地震に遭遇したのには全くビビッた。食糧も水も備蓄していないからな。これを機に、自分が如何に「恐怖」を感じる事の出来ない、「想像力」の無い人間である事か、を実感した次第。だからと言って今更ライフ・スタイルを変える気はないのだけれど…。という事で。(2000/06/03)