笠井潔著『群衆の悪魔−デュパン第四の事件』講談社、1996.10
『臨時増刊小説現代』およびその継続誌『メフィスト』に1992年11月号から1994年8月号まで連載された作品の単行本化である。扱われているテーマは文字通り「群衆の悪魔」。第二帝政開始直前のパリを舞台に、「群衆」を基本モチーフとした連続殺人事件と、それに挑むオーギュスト・デュパンの活躍を描く。「デュパン」とはもちろん推理小説の父エドガー・A・ポーの小説の登場人物である。本作品は私見でも帯にある通りポーへの「最大最高のオマージュ」とも言えるのだが、それは「矢吹駆シリーズ」と同様に、この作品が徹底的に「本格推理小説」の様式を踏襲していることにもよるのではないかと思う。ただし、この作者の作品ということもあって、W.ベンヤミンの大衆文化論や複製文化論、さらには『パサージュ論』を全面的に援用しつつ、「矢吹駆シリーズ」でおなじみの「革命」と「死」を巡る問題群が繰り返し語られることになる。そうした観念小説的な部分も大変面白かったけれど、本作品の白眉は何といっても1848年のパリの政治的・文化的状況の克明かつ精密な記述だろう。「本筋とは関係ないことを書き込みすぎる」、という批判も出てきて当然だろうけれど、本作はバルザックだのユゴーだのドストエフスキーだのの書いていたようないわゆる19世紀的な「全体小説」のパロディとも見ることが出来るのだし、さらに言えばこれはパロディどころか新しい全体小説を目指しているとも言えるわけで、こういうものが、私小説の伝統がどういう訳か明治期以降根付いてしまった日本においては20世紀末に笠井をはじめとして、高村薫や京極夏彦、さらには竹本健治といった「エンターテイメント作家」達によって書かれているという事実こそが、実のところ大変なことなのである。竹本健治の名前を挙げたついでにいうと、竹本の『ウロボロスの基礎論』と本書の元になった原稿の掲載紙は同じ『臨時増刊小説現代』およびその継続誌『メフィスト』だったのであり、竹本が同作品に笠井潔を実名で登場させているのは前にも書いたところである。竹本の同作品では「連続うんこ事件」を中心に据えつつ小説が進行していくのだが、この作品の中で私が考えるに最も笑えるのは、終盤において笠井潔が聖俗理論等を持ち出して「ラブレー的うんこ」と「スウィフト的うんこ」を対比させつつ、その実やけに神妙に同事件を解釈している辺りなのだけれど、『群衆の悪魔』の一部では、19世紀中盤のヨーロッパにおける衛生観の著しい変化という話に付随して、パリの浄水システムだの糞尿の処理に関する話が事細かに述べられていたりするのである。後述の『天啓の宴』もそうだけれど、この二人の作品の相互作用の著しさを、まざまざと見せつけられるのであった。まさに、「作品」とは「作者」独りの手になるものではないことを、「作品」を超えたところで示そうとしているのかな、などと、二人の示し合わせを邪推しつつ、ほくそ笑むのであった。(1998/07/12)