Umberto Eco著 藤村昌昭訳『前日島』文芸春秋、1999.6(1994)
イタリアの記号学者にして小説家であるUmberto Ecoの1994年公刊の小説の邦訳版である。17世紀前半の所謂前期バロック時代を背景に、Ecoによって仮想された執筆者がとある事から入手するところとなった、太平洋のとある島に流れ着いた男「ロベルト」の日記、及び小説とおぼしき創作物を基礎資料として、本書のテクストは記述されている。こういう設定だけでも十分にバロック=「歪つな真珠」的である。どうやらこの当時は経線の決定、というのが至難の業であったらしく(要は、正確に時間を計る事が出来なかった為らしい。)、物語の中心はカナリア諸島の<鉄の島>を「本初子午線」とした場合の「対子午線」の位置決定作業に当てられる。その辺のいきさつはこれまたとても込み入っているので、詳しくは本書なり地理学等の教科書なりを当って頂きたい。

いきなり中身に入る。本書で提示されるバロック的な知の在り方は今日的な目からすれば奇妙かつ興味深いものである。例えば、274頁にある「ソロモン諸島」の名称の由来に関する記述には笑わされた。すなわち、『列王伝』(或いは『列王記』)に記述されているように、ソロモン王がかつてこの地、つまり後にソロモン諸島と名付けられる島々に来た時に「大地を二つに切れ」と言ったらしい事から、対子午線上にあると考えられていた同諸島の名が付けられた、と。強引だ。Ecoが強引なのか、名付けた誰かが強引なのかは良く分からないけれど。その他、ロベルトが「<世界>は<偶然>の悪戯に翻弄される巨大な機械で、その動きは予測できないことを教わった」(p.121)という、「懐疑論者(ルビ:ピロニアン)」・「サン=サヴァン」、「諸概念の原子(ルビ:アトム)を蓄積し、それらを巧みに組み合わせながら、おびただしい数の物質を創造しようとしていた」(p.110)と評される「エマヌエーレ神父」、「子午線神学」とでも言うべきものを熱心に説く「イエズス会士」・「カスパル神父」等々の諸言説は万事がこの調子なのだけれど、Ecoは前期バロック時代の時代精神を別段嘲笑しようとしている訳ではない。寧ろその時代に生きた人物に成りきって(その目的達成の為にべらぼうな量のテクスト読解を行った事は一読するだけで納得がいく。頭が下がる。)、その時代の時代精神を克明に描く事で、そもそも「知」とは何なのか、という問いかけを行っているように思われた。ここで描かれているのは、地球や宇宙の在り様を示す客観的データの蓄積の進捗状況と、それについての様々な解釈、そして論争である。「知」とは、結局いかなる者も一括りにする事が不可能な上記諸実践の総体でしかあり得ないのだろう。この時代にはまだ評価が定まっていなかったように描かれているNicolaus Copernicusの<地動説>、Blaise Pascalの<真空>、Rene Descartesの<延長>、Baruch de Spinozaの<知的愛>、Gottfried Wilhelm Leibnizの<単子=モナド>等々の諸説、諸概念について思考するロベルトという設定は、この小説に奥行を持たせている。ちなみに、Leibnizは1646年生まれなので、1643年迄の物語である本書に登場する<単子論>は別の人物のものかも知れない。

さて、ロベルトは対子午線付近で遭難した、と設定されているのだけれど、その設定はあくまでも仮想された執筆者によるものであり、これはそもそも子午線の決定自体が、ヨーロッパ人による恣意的なものに過ぎない、という事を茶化している事になる。対子午線とはすなわち日付変更線である。その東側と西側では、常時1日ずれている訳だ。という事で、対子午線とは、「境界」、すなわちまさにリミナルな場所であり時間の実体化したもの、という事になる。そこで行われている事、乃至記述されている事はまさしくコミュニタス的な容貌を持つ事になる。つまり、そこでは現在・過去・未来が交錯し、現実と非現実の区別も曖昧なものになるのである。実は、誰でも気付く通り、本書は真ん中辺りで記述の形態が大きく変化している。前半ではロベルトの半生についての回想(所謂「教養小説」として読める。)と遭難船内の探索及びカスパル神父との出会い、後半ではカスパル神父との対話と遭難地での諸活動及びロベルトによる創作小説が記述の中心となる。全体が「あとがき」も入れて40章から成るこの小説は、丁度20章を境にして、その記述スタイルを激変させるのだ。まさしく、見立て、という事になるのだろう。地球を、乃至は世界を一冊の本で、という事になるのだろうか。まさに、ミクロコスモスである。ついでに言うと、前半ではその目の疾患の為に薄暗がりでしか活動出来なかったロベルトは、後半では昼の世界に飛び出していく。この辺りも、夜と昼、乃至闇と光、という二分法を踏まえていて、芸の細かさを感じさせる。

本作をもって、Ecoの長編小説は計3冊を数えることになる。3者の関係は極めて密接なもので、そろそろ纏めて論じられる時期に来ていると思う。表面上の事だけ述べると、本作では前作『フーコーの振り子』(初版刊行は1988年)でも表われていた、「振り子」(そのまんま。)、「錬金術」、「薔薇十字」、「マルタ騎士団」(良く覚えてないのだが、少なくとも、「テンプル騎士団」は登場していた。)、「カバラ」等々のポップ・オカルト用語が頻出する。時代設定が、『薔薇の名前』(同じく1980年)と『フーコーの振り子』の丁度真ん中辺り、というのも、計算された仕掛けなのかも知れない。尚、269頁においては、半分冗談の形で『薔薇の名前』への言及もなされている。次の作品はどの時代を描くのだろうか?誠に興味は尽きない。(2000/03/18)