庵野秀明監督作品『The End of Evangelion Air/まごころを、君に』

9月3日に東銀座にて鑑賞。全然知らなかったのだが、偶然にも「映画の日」に当たっていたみたいで、1,000円で入れた。生きていれば、こういういいこともあるよ。たまにはね。ちなみに帰りは大雨だったけれど。
なお、今回の評論は不完全な形でしかアップロード出来ないことをお断り申し上げておく。サーバーの中に電子化された形で常駐し、ネット内に遍在する存在である「平山眞」を作り出しているものの正体は所詮生身の体を持った人間であって、現在学会発表だの論文執筆だのという現実に追われているため、websiteの構築に余り時間をかけていられない。補完されたヴァージョンは10月に入ってから上梓出来ると思うので、ご期待下さい。
といったところで、今回の「完結編」について言うならば、以前に

小谷真理の著作の書評

において述べたことに、それほど付け加えることもないような気もする、というのが正直な感想である。別にTVシリーズだけであっても私なりには十分によく分かるように感じられた作品だったわけで、ここまで種明かしをしてしまってかえって面白みは薄らいでしまったようにも思う。いくら何でも、これだけ親切に、分かりやすく作ってくれたのだから、今更『エヴァの謎を解く!』なんていうようなタイトルの本は出せないのではないだろうか。それでもなお、例えば今回非常に重要な働きをする「リリス」だの「ロンギヌスの槍」って一体なんなんだ?、というような疑問は当然誰もが感じるのであろうが(私の弟子の中学3年生がしつこく聞いてくる訳だ。)、まあ、そういうことはなるべく自分の手で調べて頂きたいと思うし、出来れば「エヴァ研究書」の類ではなくなるべく原典に当たって欲しい(営業妨害かな?)。そういうことこそが、楽しい作業なのだし、今回はっきりと示されたオタク批判に誠実に応えることになるのだと思う。
しかし、この「完結編」、何の前説もなく始まるあたりがすごいと言えばすごい。これではTVシリーズを見ていない人々には何がなんだかさっぱり分からないだろう。抗議が殺到したために7月末に再放送を行った、ということはないんだろうけど。確か、ヴィデオ・カセット及びレーザー・ディスクはまだ第弐拾話迄しか出ていなかったと思う。何かするつもりかも知れない。あの辺からはいくらでもいじれるように思う。
本題に移ろう。以下では、私が見る限りにおいて最も重要だと思われたことに話を絞ることにする。
本「完結編」はTVシリーズの第弐拾五話を解体した第25話「Air」(英語タイトルはEPISODE 25':Love is destructive.25にダッシュが付いていることに注目。)と、第26話「まごころを、君に」(同じく英語タイトルはOne more final:I need you.)の二つの部分からなり、間奏曲としてLoren&Mashの『THANATOS-If I can't be yours-』が流れる。基本的には、TVシリーズの第弐拾五話及び第弐拾六話とは別の結末を迎えることになったようだ。ただし、この結末もまた補完の一プロセスと見るならば、この後に正典(カノン)であるTVシリーズの第弐拾六話が接続されるという見方も不可能ではない。反対にTVシリーズのラストが劇場版完結編のラストに接続される、という見方も不可能ではない。まあ、どちらも考えすぎかも知れないので、一応ここでは「同じ」なのか「別の」なのかは決定できないけれど、とにかくより分かりやすいある意味で予定調和的な結末が与えられた、と見なそう。ちなみに二つの部分の間にタイトル・ロールその他が出るのだが、その中には庵野氏からのメッセージが含まれている。そこでは「このシャシン」(アニメーションを「シャシン」と呼ぶ感覚もすごいと思う。)を「再度の終結」(正確な引用ではないが意味的にはこういうこと。)に導いてくれた「5人の女性」(誰なんだろう?)への謝辞が述べられる。なお、ここでは「Air」が、アスカがエヴァ量産機と戦う際に流れるJ.S.バッハの『管弦楽組曲第3番』の中の余りにも有名な第2楽節「G線上のアリア」を指していることだの、「タナトス」がS.フロイトの精神分析学では生の本能である「エロス」と対極にある死の本能を指すことなどについて詳しく書きたいのだが、時間がないのでやめる。とにかく、この辺りのことは、このシャシンの理解のためにとても重要なポイントである。
さて、上記のようにこのシャシンではTVシリーズとは違って基本的には予定調和的な結末が与えられているわけだが、実はこの結末は誰の意志によるものでもない、ということが重要である。ミサトは別に人類を救済しようなどと考えているわけではなくて、単に疑似養子であるシンジが犬死にしないようにエヴァ初号機格納庫に追いやるのだし、アスカにしても単に自分が死にたくないから回復して最後の戦いを挑むのだし、ネルフの人々ですら「私たちって、正しいわよね?」などという台詞が出るように、なんのための戦いだかよく分からないで戦っているのだし(なにせ公務員だからな。仕事、仕事。)、ゲンドウだって自分の意図とは裏腹な結末を迎えてしまう訳だし、このことはリツコについても同様だし、レイ・カヲル・ユイ及びゼーレは全ての決定を結局シンジにゆだねてしまうのだから。それではシンジは何らかの自己意志的かつ人類に貢献するような英雄的な行為をしたかというと、精々のところアスカを「オカズ」にして自慰をすることとか、ミサトに無理矢理唇を奪われたあげくエヴァ格納庫に追いやられるとか(ここでシンジはミサトから、「ここからは全部自分で決めるのよ。」と通告され、最後の戦いに挑むようにとお説教臭くかつほとんど白々しい長広舌をふるわれる。こんなシーンに感動していてはいけない。ミサトは実際のところそういう役を演じているに過ぎないのだが、シンジはおそらくそのことに気付いているし、多分ミサトのお説教など「馬の耳に念仏」なのである。)、母親であるユイ(=エヴァ初号機)におそらく強制的にエヴァ初号機に乗せられるとか、補完のプロセスにおいて助けを求めたのにも関わらず拒絶されてしまったアスカを扼殺しようとするとか、レイにリリスの中にいるのと(すなわち人類が補完され一つの意識の集合体になった状態)元の人間(他者と自己の境界を認識しうるバラバラな個体として存在している状態。この辺、もろにヘーゲル−バタイユだ。)に戻るのとどちらがいいのかという選択を迫られて後者にするとか(選択は一応意志的な行為であるけれど、この場合は選択肢があらかじめ与えられているのだから、さほど創造的な行為ではない。しかもシンジはどうやら二人を除く人類全てを見殺しにしてしまったようにも思える。ある意味でエゴイスティックかつ自己意識的な行為とも言えるが、こんな結末を本当に望んだのかどうかはよく分からない。この辺りをきちんと分析するにはJ.P.サルトルのいう「投企」や「自由」という概念について再考する必要がある。)、最後にいたってまたもやアスカを扼殺しようとしてやっぱりやめるという優柔不断なことしかしていない。端的に言えば、この物語は自由意志の放棄が人類の存続という恩寵をもたらすという、『新約聖書』的な意味でのイエス・キリストの自由意志の放棄という形での贖いによる人類の救済の物語を屈折した形で反復しているのである(勿論、そこではむしろ、ヤコブ・ベーメ神学への接近が見られるだが、細かいことはいずれ述べることにしたい。)。但し、ヨハネ福音書の記述のようなほぼ完全な予定調和性を含んだ結末というよりは、むしろ様々な人々の漠然とした意志や行為の偶然の重なり合いによってある結末へと収束したに過ぎない訳である。
実は上に述べたことは庵野氏自身についても言えることなのであって、おそらく「完結編」を作ることになることは、氏の当初のシナリオにはなかったことであるように思う。劇中でも『エヴァ』の視聴者とのインタラクションを意識していることを示す実写の場面があるが、「エヴァ現象」とまで言われ、ハーラン・エリスンやコードウェイナー・スミスの本まで復刊させてしまった社会現象を目の当たりにした庵野氏は、実際のところ「何で今更完結させなきゃなんないのだ。TVシリーズで描くべきことは十分に描いたんだし、あれはあれで終わってるのに。謎だ、さっぱりわからん、なんていってないで、わかんないとこがあったら自分で考えてくれよ。」とか何とか考えていたのではないだろうか。まあ、ある意味ではこの作品(『エヴァ』シリーズ全体)は他者とのコミュニケーションというものについて突き詰めることによって、人間とは何か?というような壮大な主題を扱おうとしているのだから、制作者と視聴者のある種のインタラクションによって補完されて完結したこと自体が、作品世界自身がそれを含む現実世界と自分の尻尾を飲み込むウロボロスのごとく繋がってどちらがどちらだか分かりにくくなるようなところを表現することで、「作品」とは何かという問いに一つの回答を与えたのだと言えなくもないことを述べておきたい。
とりあえず、こんなところである。
ちょっと付け加えるが、こうやって「完結」してみると、本作品の『ヴァリス』シリーズの内の特に『聖なる侵入』、『時計仕掛けのオレンジ』、光瀬龍の『百億の昼と千億の夜』、『パルジファル』などとの親縁性がより一層はっきりしたように思う。「完結編」だけについて言うなら、J.J.ベネックスの『ベティ・ブルー』(この作品が引用したのはM.フォアマンの『カッコーの巣の上で』である。)の一部が引用されていることに目を見張らせられたり、最後の方で流れる曲が何となく『ヘイ・ジュード』みたいなことから同じくM.フォアマンの『存在の耐えられない軽さ』における、耐え難い警察国家チェコ・スロバキアから脱出したD.D.ルイスとJ.ビノシュが演じるカップルをシンジとアスカに重ね合わせてしまったり、なかなかに趣のあるラストは勿論『猿の惑星』を引用しているのは明らかだけれど、それとは別にこれまた強烈な印象を残すE.クストリッツァの『アンダーグラウンド』のラストシーン(井戸に潜り、水中から浮かび上がると、そこは天国だった、というようなもの。)を想起させたりした。
このくらいにしよう。私もまた、「現実」に立ち帰るという選択を行わなければならない。たとえそこが安住の地とはとても言えない苦痛に満ちた場所であったとしても。(1997/9/8。9/11に若干の修正)