竹本健治著『風刃迷宮』カッパ・ノベルス、1998.12
天才囲碁棋士「牧場智久」シリーズ最新刊である。本作では、智久の恋人の美少女剣士武藤類子はほとんど姿を見せないし、それはまあともかくとして、著者自身も「従来の類子&智久モノからすると、かなり異色なテイストとなっております。」と表紙裏で述べている通り、『凶区の爪』『妖霧の舌』『緑衣の牙』と続いてきた、この人の作風からすればむしろ異色とも言うべき「普通」の本格ミステリであった「類子&智久モノ」からは一線を画した、『匣の中の失楽』『ウロボロスの偽書』『ウロボロスの基礎論』のような一連のアンチ・ミステリ路線に合流させようとするかのような意図をすら感じさせられた。再び表紙裏によると、本書は「描き下ろしマンガ『入神』(南雲堂刊)」と併せて読まなければならないそうで、実のところ、この本一冊だけではそれこそデータが少なすぎて何が真相なのだかよく分からないのである。それ故本作品に関する評価は、そちらを読了後に改めて行いたいと思う。(実は、まだ未入手なのである。)
なお、今回もまた、『妖霧の舌』『闇に用いる力学』に引き続いて「パソコン通信」が重要な(そうでもないのかな?少なくとも上記2作品程ではないのは確かである。)アイテムとして登場する。最近「インターネット利用における匿名性」が「バッシング」を浴びているように思うのだけれど、個人的な意見を述べさせて貰えば、利用するにあたって「匿名性」が保証されていないメディアなんて、何が面白いんだろうか?「パソ通」にせよ、「アマチュア無線」(愛好家はまだまだそれなりにいるんだろうけど。「携帯」全盛の世の中で、その利用価値は限りなく減っている訳だ。「盗聴」位しかないよな。こんな事書いていいのかな。まずかったら消します。でも、通話料が基本的に「ただ」、ということと、そのためもあるのかも知れないどころじゃなくて多分そのためなのだろうけれど、それを利用するには「国家試験」にパスしないといけない、ということも付け加えておこう。)にせよ、「本名」を名乗るなんてことはむしろおかしなことだったはず。いつの間にか変なことになってきているように思う。昨年末の「事件」発覚直後に、「インターネット利用に際しては本名を名乗るべき」なんてことを「朝日新聞」の一面で述べていた西垣通東大教授のような方の頭の中には、「国民総番号制」と同じような管理主義的でファッショ的と言ってもいいような発想があるんじゃないの?などと邪推してしまう。そうじゃないとしても、そうした言説はどう見たって「過剰反応」ですよ。明らかに。日本国内では年間2万人以上が自殺を遂げているのにも関わらず、そのことは全然問題にしないで、ほんの数人が「インターネットを介して」入手した薬物で自殺したからと言って、何を騒ぐことがあるんだろうね。よく分かんないな。
ちと、脱線し過ぎたかな。脱線ついでに言っておくと、私見では物事を早い時期から冷静かつ的確に捉えていたように思う竹本は、『妖霧の舌』(光文社文庫版、1996(1992))の中で、「現代人のコミュニケーションの手段がテレビ電話の方向じゃなく、パソコン通信という匿名性の高い方向に流れているというのは、僕にはとても面白いですね。」(p.173)などという台詞を、ある登場人物に語らせていたのだった。全くその通りで、社会学研究科なんてところに在籍している私にとっては、そういうこと自体が面白いのである。みんな「本名」を名乗るようになったら、詰まらなくなるだろうな、と考えているのは私一人ではあるまい。無責任?そんなこたあ知るかよ。考えるに、「ネット社会」の「健全」な在り方ってのは、「他人に迷惑をかけない限り何でもあり」ってことなんだと思うんだけどね(これは別にネット社会に限ったことではないんだけれど、それについてはまたの機会に述べたい。)。勿論、「詐欺」だの、「プライヴァシーへの介入」、「個人・団体への誹謗・中傷(これについては、反論が出来るような相手に対する筋の通ったモノだったら基本的にOKでしょう。)」、だのってのはまずいから、最低限、ものすごーく緩い規制を設けることについては反対はしない。でも、ネット社会(「ネット社会」という言葉は余りにもかっこ悪いし、実態を表現していないな。最早「サイバー・スペース」といってもいいかも知れない。でも、高々128KBpsまでしか使えないのだからまだまだかな。2次元画像程度でもストレスがある位だからね。勿論、ネット内では単にバイナリのデータが光速で行き交っているだけだし、サーバー及び各ユーザーのコンピュータ内のデータも基本的に二次元的な構造を持っているハードディスクだのメモリだのに張り付いているだけなのだから、決して「スペース」ではないのだけどね。何かいい言葉はないものだろうか?)は立法府で「法律」を作ったりしているうちにどんどん成長してしまうんだろうから、外部がとやかく言っても結局のところ「鼬ごっこ」になるんだろうと「予言」しておく。さらに言えばネット社会内では、ネット社会を構成する者たち自身、あるいはネット社会自体によって自律的に何らかのルールが出来ていくんではなかろうか、と凄く楽観的なことを申し述べておこう。「ネチケット」、なんてのも既に存在している訳だからね。人間、まだまだ捨てたもんではありませんよ。私自身もその一翼を担うことになる訳だ。ネット社会の住民として。(1999/01/21)